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11.ふたりでふたり

私は未来を考えるのが苦手だ。
なんでかってそんなの、双極性障害で新型肺炎の休業で打撃を受けてバイトが月1〜4日出勤になってジリ貧(元々自立出来るほどのシフトや賃金では無かったが)極まり、そんなところに2月に申請していた障害者年金の不支給通知が届き、3月から続けているお見合い婚活も実りがなく、1年後、どこで何をしているかさえ本当に分からないからだ。

そんな私の価値観、美学、行動原理の一つとなるヘタクソな恋愛のスタンスを紹介しようと思う。

よく映画で素晴らしく語られる愛や歌われる恋は「ふたりでひとつ」だ。
チャペル式の結婚式でも日本語がペラペラな牧師先生がわざわざカタコトで「健やかなる時も病める時も」と愛を問う。
喜びも悲しみも分け合って、良いことは2倍に、辛いことは半分にして仲良く健やかにお過ごしくださいとのことだ。

ここからして私は全く誓えないのだ。
私が未だに私をど本命扱いする人に出会っていないからそう思うのかとも思うのだが、きっと多分これは私の生き方であり価値観であり、プライドでもあると思うのだが、私は好きな人と時間を共にする亡霊のような立ち位置だと考えているのだ。

愛しているからセックスをする。間違いではないけれども私にはニュアンスが少し違った。
好きな人と同化したいから受け入れるのだと考えていた。
(私が性自認が女性で身体も女性で、女性を好きになることもあるけれども大抵男性を好きになるから、という注意書きも示しておこう。)
私は大学生の時に女性と恋愛をしていたことがあった。その際に、小説で「あなたの男を私が奪ったと言えるの?彼はあなたの所有物ではないわ。ではあなたのものは何?彼の肉体?彼の精子?彼の心?」と問う内容を読んだ。

「好き」で「恋愛している者同士」、「ベクトルがお互いに向いている者同士」であっても「他人」なのだと呆然としたのだ。強烈だった。鮮明だった。
当時の彼女とは遠距離だった為、会う事もなく彼女が1〜2ヶ月検査入院で連絡が全く取れなかったことで(検査入院だなんて知らなかったので切られたのだと思った)諦めて終わったのだが、相手が女性であっても男性であっても、恋人だからと自分のものには一生できないのだとその時やっと知ったのだ。18歳でやっと理解したのだ。

全くの別の遺伝子の流れから生まれた人同士であり、細胞一つ一つが個体の中でそもそも違い、どんなに好きで独り占めしたくてもそれは叶わない。だから一つになりたくてセックスをする。
隙間なく溶け合えるようにと。
だがしかし、女性器は内側に引っ込んでいるだけ、男性器は外側に出ているだけ。
どんなに凸凹をハメても、胎内の内臓全てには繋がらない。どうしたって「隙間」は出来るんだと「生物学」が微妙に好きだった私は項垂れた。

彼に近付かないのなら彼になりたい、彼の幹細胞になりたい、そうすればずっと一緒に居られる、なんてメンヘラ地雷女めいた考えを持ったこともある。妊娠しても、子供と私と彼は別個体で別の染色体でDNAで、そこまで考えてやめた。
多分そうして子供を妊娠して産むのは不健全なのだと思うし、そもそも今はそんな相手がいない。

話を戻して「ふたりでひとつ」が私には無理で「ふたりでふたつ」なのは、相手を慮っているからである。遠慮や謙遜とか自虐とかそういうのではなく、ただ単に私は勝手に彼を好きになって引っ付いている亡霊程度に思っているからだ。
これについて彼側が私を亡霊扱いするかしないかは別としての私のスタンスだ。

もし私が先に死んで(確率的には割と高い)、本当に幽霊となって葬儀や部屋の片付けなどを行う彼の姿を見ていたらどう思うか。
「健やかなる時も病める時も」なんて言えない。


私の分まで笑わなくていい。

だから私の分まで悲しまなくていい。

これに尽きるのだ。

謙虚とかそういうのではない。大好きな人なら苦しませたくない。たとえ彼が苦しみこそ愛なのだとかいう信者であっても私は彼の斜め後ろ上空を漂いながら「そんな背負い込んでどうするつもりなの、私はもういないのに、一人で出来るはずがないでしょう?だってふたりでふたりだったんだから、ふたりでひとつになんてなれないよ」と。

新型肺炎があって、ソーシャルディスタンスが叫ばれレジを並ぶのにも一歩半くらい開けて並ぶようになると、ますますATフィールドは強化されていっているように思う。
簡単には傷付きたくはないのは皆んな一緒だ。
そんな皆んながガンガンにATフィールド展開してる中で飽和出来る奇特な人に出会えたなら、ディスタンスは縮まるのだと思う。
それはソサエティなソーシャルではなくなり、ドメスティックなソーシャルに移っていくからだ。

これは私の今の現状での恋愛の価値観であり美学でありプライドである。
先日転職活動の適性検査(自社での作成)を受けた時、「あなたは転職活動に置いて何か捨てなければならなくなった場合何を捨てますか」との問いがあった。普通であれば「福利厚生」とか「勤務地の希望」だとか「職務内容」等なのだろう。
水星人マイナス、射手座、ヒョウの皮をかぶったライオンである私は「己のプライド意外であれば何でも」と答えた。馬鹿にしているわけでもビッグマウスになったわけでもなく、私の軸を私は分かっているからそう答えた。

その適性検査が一次選考だったのだが見事通過し、先日一次面接をみっちり1時間WEBにて行った。

キャリアについても友達関係においても、恋愛においても、自分の価値観とそれで失敗した時に自分で責任を負いリカバリーできるかどうか、リカバリーできなければ次はないよと自分に言い聞かせバージョンアップする。

恋愛においてが、私はそれが「ふたりでふたり」だったのだ。
別にめちゃくちゃドライでサバサバしてて相手に興味がないとかではない。
大好きだからこそ尊重するし曖昧なことはしたくないし多少自分が傷付いても「あなたの真意は?」と問える強さがある。
どうせその帰り道グズグズに泣いて家で号泣しながら酒を飲むにしろ、相手の前では絶対に泣かない。
ほだす要素にしたくないし、それでほだされるような奴とは未来がない。


こんなのだからお見合い婚活も上手くいかないのだろうなとは思う。
1年間の期間限定での活動だというのに、己の時間・信念が確立している女。さぞ扱いにくいだろう。
そもそも男性側は明らかなリミットがないのでそんなに焦ってないし軸はブレブレでお花畑なので閉口なのだが。

結局は自分で考えた価値観で動けるか。
そしてその価値観もバージョンアップ出来ていくのか。
その価値観で動いた結果にきちんと納得と責任が持てるか。だと思う。


この価値観を育てるのが知識だし映画やドラマや本や漫画での追体験だし、自分が何者であるのか自分の軸がなんなのかその軸の由来はどこからなのか、それを曖昧にしたままでは私は大人でいられないと思った。


世の中は不条理で理不尽だ。
私は一切悪くないのに脚の病気になり10割負担だと国が決め、そのせいで出来る仕事が狭まり通院を考えると平日休みのシフト制サービス業か謎のシフト制事務等に就職するしかなくなる。
サービス業は薄給だ。30歳でも300に乗らない年収もザラだ。一方で紹介予定派遣の求人を見ると350万賞与有り!なんてタイトルを見る。
仕事に貴賎はないが差はある。

そんな中で如何にブレない、キャリアにも私生活にも通用する価値観を美学を行動原理を自覚できるか、育てていけるか。それが結果未来につながると思うのだ。

日々は永遠ではない。だから己を守るのはその価値観だ。正しいと思う道を見つけるのも進むか決めるのも自分だ。自分の落とし前をつけられるのも自分だ。それが自分が生きる責任というものだ。

27歳以来の大きな鬱期が仕事で雑に扱われた途端にやってきた私には今すがるものがほぼ何もない。それこそ障害者年金の審査請求を行う為の書類だとか社労士探しだとか福祉サービスを利用するにはと区役所巡りだとか、そういう忙殺にすがるしかない。

だが、恋愛対象にすがるより私としてはよっぽどマシだ。好きな人に迷惑なんぞかけたくない。しかも私が恋人であるが故の迷惑だなんて恥曝しも通り越して空中爆発したい。

大丈夫、未だそんな恋人なんて1人も現れてないから大丈夫。

まだ私は自分の生と死を自分で握っている。


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