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5.皆に優しい人に恋することが難儀な理由とは

 私の友人には男女共に、「誰にでも優しくてモテる人」と言うのが居る。その人達に好意を寄せる方達は難儀だなと思う。本人達も自覚があるからこそ難儀である。
 何が難儀か。
 「恋人」という椅子の高さである。
 殊更「承認欲求」が絡まる恋愛においてはその椅子の高さに難儀するのでは、と。

 昨夜、令和の魔法使いこと浅田さんのインスタライブを寝落ちしつつ聴いていたのだが、なんか確か「誰にでも優しいなら嫌われてはいないから好意をアピールしたら相手を恋愛モードにすることが出来る云々」だったか、「誰にでも優しいけど、でも実は〜だよね」みたいな刺さる深さの深い台詞を言って親密度を高める云々だったと思う。

 確かに親密度が高まって「恋人」の椅子に座れて、座らせることが出来るかもしれないけど、果たしてその人と付き合って、満足がいくのだろうかという点については疑問が残る。

「誰にでも優しい」

 それはつまり「恋人」へではなくても優しいわけであって、「恋人」の椅子の高さ(位置、重要度)がそんなに高くない。言い換えれば、「その他」の「友達」それこそ「異性の友達」も割と高い位置の椅子になっている可能性がある。
「ただキスとかエッチするようになっただけ…?」
みたいな現象が起こるのではないか?という疑問だ。

 私の友人達はそれで過去恋人とトラブルになり、「でもちゃんと好きだし、でも友達も好きだし」と苦悩していた。優しいというか、本当に分け隔てなく接して生きているからこそ、ベクトルの大きさのミスマッチが起こるのである。
 だからといって、そんな優しい人に惚れたのであれば、「自分だけを重要視してよ!」というのもなんだか好きになった人を否定しているし、かと言ってモヤモヤを抱えたまま「でも恋人は自分なんだし…でもなんでこんなモヤモヤ不安があるんだろう」となると思う。
自分は大丈夫!と思っていても、「承認欲求」が絡んでいるとだんだんと病んでいく。そりゃーもうめっちゃリアルに病み方が分かる程に。

「自分の好きと相手の好きがなんか違う…」となるのである。

 これはもうどうしたらいいかって話になるんだけど、「恋人に依存しない」「恋愛に承認欲求絡めすぎない」というのがベスト。ベストというか、まぁそう意識するのがベター。

 自分のことを理解してくれるのは「恋人だけ」の状況を作らない。
友達にも、趣味にも、映画でも音楽でもお笑いでも良い、「承認欲求」とか「自分を大切にして欲しい」を分散させておくのである。
その方が精神衛生上良いし、依存しない恋愛・自立した恋愛として長く継続できる。
その人のことがちゃんと好きなら尚更かな。

 ちゃんと好きなら「少しでも長く」と思うし、「あなたにも笑顔でいて欲しい」「喧嘩ばっかりなんて望んでない」となるだろう。
 そもそも好きになったことを嫌になることはないだろう。

 それが結果、自分の人生の余暇や仕事を充実させることになるし、会えた時に楽しむことができるのである。
 連絡はしょっちゅう四六時中、相手のことを全て知りたい。
 それは破滅が遠くない未来やってくるでしょう。
 だってそれを責めても「誰にでも優しい人」は「優しくない人」にはなれない。だって「誰にも優しい人」だから。

 恋人であっても他人の生き方に文句つけて自分の思い通りにしようだなんて、そこにもう恋とか愛とかないですよ、「自分を肯定してくれ」という脅ししかない。

 恋愛は成長することができる豊かな文化です、理性も本能も混じった複雑でまぁままならない人間らしい文化です。

 どうか、「何か」でもあなたが素敵になれる恋愛であるように私は祈ってます。

ちなみにこの記事、私への盛大なブーメランです。
戒めとして書いたような気もします。

愛する人を正しくちゃんと愛せたら良いよね。

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