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いっぱい未来の話をしよう ー「映画 太陽の子」を観てー

昨夏の劇場公開時には、コロナの感染状況も最悪だった為、映画館で鑑賞するのはいつかいつかと伺っているうちに、あっという間に上映が終了してしまって、結局見られずじまいだった。
ようやくデジタル配信にて鑑賞することができた。

テレビドラマを見たときの想い

遡ること、2020年8月15日。
オリンピックがあるはずだったのになかった、その夏の終戦の日には、本作の80分間版のテレビドラマが放映された。
そして、その約1か月前には、本作に石村裕之役で出演した三浦春馬君がこの世を去った。
当時、私はそこまでのファンでもなかったにも関わらず、三浦春馬君の急逝に心を打ちのめされてしまい、毎日、悲しくて泣き暮らし、どうにも気持ちの整理がつかずに、このnoteに心情を吐露し始めていた。
そんな頃に見た、三浦春馬君の出演するドラマ。
しかも、春馬君が演じた裕之は戦地に赴き、しかも特攻を志願し、途中、自ら入水して命を絶とうともする役どころだった。
戦争、原爆と言った重いテーマを理解するべく、なるべくストーリーに集中しようと思ってはいたが、裕之と三浦春馬君自身が重なるようにも思え、結局、私の心中の動揺が大きく、このドラマは、春馬君の死去を悲しむためとばかりに見てしまった。
特に、最後の方の手紙を読むナレーション部分に至っては、涙を落とすまじと目をぎゅっと閉じ、歯を食いしばったが、耳に届く春馬君の若干震えたような声を聴いたら、閉じた目から涙がにじみ落ちた。
結局のところ、ドラマは、申し訳ないが、平常心では見られず、また、春馬君の急逝の辛さのあまり、見直しもなかなかできず、ストーリーや他の俳優の演技の細部もしっかり追えず、作品が訴えるメッセージも十分に理解できたか自信がないまま、今に至ってしまった。

映画を観たときの想い

その頃に比べると、だいぶ私も平静を取り戻し、この映画版に関しては、最初からほぼ最後までは涙を流すことなく、ストーリーに集中して見ることができたように思う。
「ほぼ最後」というのも、最後の最後のエンドロールの合間に差し込まれたメッセージを目にしたときだけは、やっぱり春馬君がこの世にいない現実を、改めて突き付けられた感じがして、涙が溢れてきてしまった。

この映画は、ドラマとは異なる視点で描かれると、どこかのあらすじに書いてあったが、観てみるとそんな感じはせず、ドラマ版を若干深堀り、肉付けしたかのような印象で、大きく趣旨が変わるようなことはなかったように思う。
太平洋戦争下、日本における原爆開発をバックグラウンドに、揺れ動き、揺れ動かされながら生きた、若者たちの物語。
心落ち着けてこの映画を観てみると、戦争モノだからと言って、戦争の不条理さやむごさを単にエモーショナルに畳みかけて涙を誘うような、安易なストーリーではなかったと改めて認識させられた。
「考えさせられる映画だった。」と安っぽい言葉一つで、自分の感想をまとめてしまうこともできるが、実際のところ、本作はそんな簡単な話ではないように思う。
アメリカと日本、科学と戦争、兄と弟、母と息子、男と女、教授と学生、情熱と狂気、生と死、戦争と平和、絶望と希望。
これ以外にももっとあるかもしれないが、複雑に交錯し合う様々な対比のポイントがこの映画にはあって、感想を述べるにもどこからどんな言葉で表したらいいものか迷う。
観客がどの切り口で見て、どう感じるのも自由ではあるが、私の拙い言葉では、この作品を語るに十分に表現しきれないとも思え、感想を言葉にするにも躊躇いを感じてしまう。

柳楽優弥の凄まじさ

ここには多くは書かないが、とはいえ、ここに書かなかったからと言って、他のキャストの演技が良くなかったわけではないと、先に付言しておきたい。
柳楽君にいたっては、春馬君の持つ、人をじわじわと説得するような演技力とはまた違った、人を一気に圧倒するような強力な演技力の持ち主だと私は思っていて、本作においてもそれは発揮されたように思う。
全体のバランスからしてそれでよかったのだろうが、もしも柳楽君の演技力だけを堪能するのであれば、後半、修が比叡山に上って、京都に落とされる原爆を見ると言い出すあたりから、もっと修の内面の描写を増やしても良かったのかもしれない。
なぜなら、柳楽君の演技力が最大限に引き出されるのは、狂気を演じているときだと思うからだ。

石村裕之に、三浦春馬を感じる

この作品が撮影されたのは、春馬君の髪型の変遷からして、恐らく、2019年の後半ではなかろうかと想像される。
春馬君は、頭を丸め、体重も落とし、外見上はもとより、当時の状況を勉強して精神ともに役柄を作り上げて撮影に臨んだのだろうと思う。

春馬君の出演したシーンで、最も印象深かったのは、お母さんが作ってくれたお寿司を食べるところだ。
裕之はお寿司を口に入れ、目をぎゅっと閉じてから「ん~~~~っ、うまい!」と言うが、正直に言えば、そのセリフ回しは実にわざとらしくも聞こえる。
このシーンを私と一緒に見ていた家人は、「あまり美味しそうに食べないね。」と言っていたが、その通りだと思う。
そういう演技を、春馬君はしたのだろうと思う。
裕之は、そのお寿司の味が美味しいから「うまい」と言ったのではないだろう。
久しぶりに食べた母の味。
もう二度と食べることはないだろうという覚悟も持って食べて言った「うまい。」の一言。
ナチュラルに美味しかった時の「うまい」とは違う「うまい」を表現したかったのだろう。
緻密に考えた末の、俳優・三浦春馬の演技と演出の意図が合わさって見えた瞬間のように感じた。
そのシーンだけでも、もっと言えば、この作品だけでもないのだが、春馬君の演技の向こうには、春馬君の熟考の裏付けがいつもあるような気がする。
演者の演技の向こうにある、本来ならば見えないはずの熟考の様子を、観客に透けて感じさせてしまうのも賛否はあるのだろうが、私はそういう演技をする俳優は好きだ。
お母さんの作ったお寿司を食べるシーン、海に向かって突き進むシーン、いっぱい未来の話をしようと3人で語るシーン、出征するシーン、手紙を読むナレーション、緻密な計算がその演技の向こうにある。
そこまで役と向かい合い、深い思慮を経た上で演じられる俳優が、しかもその年齢で、他にどれほどいようか。
演技力は群を抜いていた。

裕之は「怖いよ、俺だけが死なんわけにはいかん。」と泣きながら叫び、「いっぱい、未来の話をしよう。」と笑顔で語る。
戦時下の絶望のふちにいながらも生きて、生きたがった若者がいたのだ。
春馬君は、裕之が生きた証を全身全霊の演技で、観ている私たちに強く伝えてくれた気がする。
そういうのは良くないという人もいるかもしれないが、私は、裕之と春馬君を重ねて見てしまう。
春馬君も、もしかしたら「生きること」と「死ぬこと」の狭間で、気持ちが揺らぐことがあったかもしれない。
最後の最後で、ふいと春馬君は逝ってしまったけれど、裕之と同じように、春馬君自身も生きて、生きたがったときもあったのだと信じたい。

この1年半もの間、柳楽優弥君のも、有村架純ちゃんのも、それぞれが出演する新作のドラマや映画を幾つも見た。
この作品で共演した、彼らの活躍ぶりは目覚ましい。
それに引き換え、本作が春馬君の出演する最後の公開作で、もう新たな作品で、新たな役柄を演じる春馬君には会えない。
少し悔しい感じもする。
しかし、春馬君は彼が残した作品の中には、ずっといるのだ。
会いたくなれば、いつでも会える。
そして、春馬君が残した数々の作品は、春馬君が生きた証でもある。
春馬君に会いたくなったら、その証を、繰り返し観て、春馬君が何を伝えたかったのか、思いを馳せる。
死してもなお、メッセージは届く。
見るたびに、新たな発見があるかもしれない。
もしも私が生きていく上で辛いことがあった時なら、そこから脱却するヒントを与えてくれるかもしれない。
春馬君がこの世を去った。
その事実は変わらないし、この哀しみは、きっとこの先も消えないだろう。
その哀しみと付き合いつつ、春馬君が生きていた証が私の支えになってくれると信じ、私は私の未来に向けて、生きられるところまで生きていこうと思う。
そう思わせてくれる、裕之の笑顔だった。

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