三浦春馬君の訃報が辛い理由、ネガティブな同一化・共感化の「その後」~いま私にできること・今も悲しみが癒えない人への5つのステップ~
三浦春馬君が亡くなって、もう半年以上経つ。
私がこのnoteに春馬君のことを書き綴り始めても、5カ月半が経つ。
時の経過に連れ、私自身の心情にも変化は生じてきた。
去年の後半、ずっと考えていたことは、「私も春馬君のところに行きたくなっちゃったらどうしよう。」ということだった。
自分のことを自分で俯瞰的に心配するという、とても変な感じだけど、確かにそんな感じの日々が続いた。
だが、今は何とかそれなりに、2020年7月18日以前の私に戻りつつあり、精神も比較的安定して普通に暮らせている。
「いま私にできること」
このnoteを通じて、こんな私にもできることがあるのかな。
「いま私にできること」は何かを考えてみた。
今も悲しみが癒えない人へ
春馬君が亡くなってすぐはショックが大き過ぎて、しかも、元来ファンでもなかった私がどうしてこんな風になってしまったのかもわからなくて、毎日辛くて泣いて暮らしていた。
そんな中、私はぐちゃぐちゃになった自分の気持ちを整理するべく、こんな(▼)記事を書いた。
実は、これらの記事は、今も多くの人に見てもらえているし、スキもしてもらっている。
この1カ月だけのビュー数、スキ数で見ても、この記事は私のnote記事の中でも結構上位にランクインする。
シリーズ最後の4つ目なんて、約4カ月前の10月初旬に書いたものなのに、最近書いた記事に並んで上位に食い込むって、どれだけ関心を集めてるんだっていう。
この、ひたすら暗い記事にスキが500以上もついてる現実って、結構エグい気がする。
どうやってその記事に、皆さんが辿り着いているかはわからないが、これらの記事は、Googleで「三浦春馬 辛い」とか「三浦春馬 悲しい」とかで検索すると、わりと上位に表示されてしまう。
私なんて、悩みがあるとGoogleの検索窓にその悩みごとそのものを打ち込んで、ネットの世界に答えを求めがちで、若い頃なんて「どうして結婚できない」なんてのも入れて検索してみたぐらいだから(←痛い。)、もしかしたら、私のお悩み相談みたいな感じで、今なお、春馬君が亡くなったことの悲しみが癒えなくて、そこから抜け出したいけどどうしたらよいかわからず、思いの丈をGoogleに打ち込んだ結果、私のnoteに辿り着いてしまったなんて方もいるのかもしれないと思っている。
前にも書いたように、私自身、このnoteという場や、記事を読んで下さった方々からの反応によって救われたと思うことも多々あって、私ばかりが恩恵をいただくだけでなく、いつか、何かの形でお返しができないものかとも考えていた。
私のnoteやTwitterのフォロワーの方々は、三浦春馬君に対して思いのある方が多いと思われ、その中に、上のシリーズ記事に辿り着いてしまうような、まだ哀しみが癒えない方々がいるならば、その方たちに向けて、私がこの半年の間に行ったことで、私の気持ちが落ち着きを取り戻すに役だったと思えることを伝えることが、「いま私にできること」なのではないかと思い至った。
大変僭越だとは思うし、必ずしも参考になるものでもないとは思うし、押し付けるつもりもさらさらないけれど、もしかしたら、これを読んだ誰か一人でも、やってみて気持ちが晴れることがあるならば、踏みとどまってくれるならばと願って、この5ステップを書いていく。
1.泣く。
悲しいならば泣こう、とにかく泣くのだ。
昨年、そもそも春馬君の熱心なファンでもなかった私がどうしてこんなに悲しむのか、その理由がよくわらかなくて、素直に悲しんでよいのかもよくわからなかった。
ただ、途中からは、もうどうでもいいから悲しんでやれ、理屈なんてないのだ、むしろ、とことん悲しもう!ぐらいに思って、悲しみのどん底まで落ちることに決めた。
それは、底まで落ちれば、きっと、後は上がるしかないと思ったから。
そう思ってからは、どこでも泣いた。
お風呂に入りながら、仕事をしながら、食洗機にお皿を入れようとしながら、ふとした瞬間にこみ上げてくる自分の感情に正直に、泣きたくなったら泣いた。
春馬君のことを思えば自然に涙が溢れたものだけど、それだけでなく、意図的に涙を流すように努めた。
例えば、それは春馬君の出演作品を観て、そのストーリーや春馬君の演技に感動して涙し、はたまた、改めて春馬君がいないというその喪失感を強く感じてしまい、寂しさが募っては涙した。
私の場合、「僕のいた時間」の中で、拓人と春馬君とを重ねて見てしまう部分があって、拓人のセリフが刺さって仕方なくて泣けた。
それと、「カネ恋」を観終わった後は、毎回夜中の12時ぐらいまで、おいおい泣いたような記憶がある。
これについては説明不要な気もするが、「カネ恋」に関連しての当時の心情についてまとめた記事(上・下)を今、改めて読むと、まぁ、なんと暗いことか。
あのドラマを観て、泣かずにいられようか。(反語)
さらに、私は春馬君の出演作ではない、他の映画とかドラマとか加えて、観て泣いてみた。
もしかすると、「春馬君の作品以外のものを観る気になれない。」と思いがちかもしれないが、ここはちょっと試しに一つだけ選んでみて欲しい。
私の場合は、春馬君の出演作品を見る合間に、ドラマ「コウノドリ」をシリーズ1とシリーズ2と観て、ほぼ全回で嗚咽した。
「コウノドリ」は産婦人科医が主人公の、命の誕生する場で起こるヒューマンドラマなので、どの回も命の尊さを深く深く考えさせられて泣くのだけど、特に、シーズン1の第5話「14歳の妊娠 少女が母になる時」はもう、しゃくりあげて号泣した。
この泣くときも、目に涙を溜めるだけにせず、しっかりとたっぷりと涙を頬に伝わせて、ボタボタ涙が落ちるぐらいに泣く。
いい大人なのに、とか気にせずに、声を出してもいい。
泣いている実感を持った方が良い。
詳しい身体の仕組みはわからないが、この泣くという行為で神経の作用が働くらしく、リフレッシュすることができるのだそう。
〽思い切り泣〜いて〜(from 森高千里「雨」)って感じで、とにかく泣こう。
泣いても泣いても春馬君は帰ってこないけど、辛い気持ちを自分の中に閉じ込めておかなくていい。
泣こう、泣いていいんだ。
2.笑う。
とにかく笑えない。
とてもじゃないが、笑えない。
春馬君が旅立ったのだ。
笑うなんて不謹慎にも思える。
笑えても、それは表面的な薄ら笑いで、心から笑えはしない。
そんな日々が続いていた。
そんな中、私はドラマ「#リモラブ 〜普通の恋は邪道〜」を見た。
これが面白かった。
とっても楽しかった。
この「リモラブ」が始まった頃は、ちょうど「カネ恋」の最終回が終わった10月上旬で、私の心情的には一番しんどかった頃だった。
「カネ恋」で、春馬君を失った現実を見せられ、打ちのめされた私はどん底中のどん底にいた。
前述のとおり、その頃の私の心は沈んでいたというか、やさぐれていたというか、何かでグサグサに刺されたような状態で、「ラブコメなんて観て笑えるか!」なんて思っていたのだけど、これが案外すんなりと笑えてしまった。
ありがちでありがちではない設定(古くは映画「You've Got Mail」とかドラマ「With Love」みたいに、ネットで知り合って気になるあの人は実は身近にいたあの人、みたいな話なのだが、実際、そんなことあるわけねーだろ的な。)、なかなかわからない檸檬さんの正体、遅々として進まない恋愛関係に、ストーリーに入り込めないとか面白くないとか、このドラマを観ていた人たちは色々と思うところもあったかもしれないが、私自身は、クスッと笑えるユーモア溢れる脚本、出演者たちのコミカルな演技に、「何これ!面白い!」「そうよ、ラブコメってこうして笑えるものなのよ!」と、何と比較してそう思ったかはもう言わないけれども、「ラブコメってやっぱり必要なエンターテイメントなんだわ!」って、ここだけガッツポーズして言いたくなるぐらいに実感して感動した。
美々先生役の波瑠さんは演技が上手、何度笑わせて貰ったか。
受け止め男子・青ちゃん役の松下洸平さん、沼にハマりそう。(松下さんが演じている役なら「知ってるワイフ」の津山の方が好きだけどね。見た目が青ちゃんそっくりだけど、ちゃんと中身は違ってる。←当たり前だわね。)
いつも心に沁みたのは、江口のりこさんが演じる富近先生のセリフ。
そして初回からずっと思ってたのは、音楽がすごく良いってこと。
ストリングスの効いたあの曲、作ったのは売れっ子劇伴作曲家の得田真裕さん!(▼ このサントラ、今もよく聴いている。)
楽しかったよ、笑えたよ、コロナ禍を逆手にとってのストーリー展開、素晴らしかったよ。
毎週水曜日の夜が待ち遠しかった、そんな前向きな気持ちにさせてくれた「リモラブ」、ありがとう、その存在に救われた。
この「リモラブ」のおかげで、「あ、私、ちゃんと笑えるんだ。面白いものには笑って反応できてる。」って、自分の中に笑える力が残っていたことを確認できた。
その後の年末、「アメトーーク5時間SP」で放送された、巨大扇風機に立ち向かうアンガールズ田中を見た。
理屈抜きに面白すぎて、息が吸えなくなるほど、腹筋が痛くなるほど、もう笑い声が出なくなるほど、大いに笑った。
フジモンが「全お笑いの中で、これが一番面白い。」と言うぐらいの秀逸な出来栄えで、たぶん、私が去年で一番笑ったのがこれだと思う。
そして私は確信した、「私、笑えてる。もう、私、大丈夫。」と。
春馬君のことを思うと、私だけが笑って過ごしていいのかなとも思う。
まだ喪に服さなきゃ、なんて気持ちもなくはない。
しかし、ここは勝手に春馬君の気持ちを想像してみる。
きっと優しい彼のことだから、皆には笑っていてほしいって思ってるんじゃないかしら、と。
だから、普通に過ごしていても笑えることなんてないのなら、お笑い番組でもギャグ漫画でも友人や家族とのお喋りでも何でも良い、何かのきっかけを作ってでも積極的に笑ってみようではないかと思った。
そして、笑えたら、きっと、少しずつでも気持ちは前を向く。
アンガールズ田中を見て大笑いした私、「夏から続いた悲しみのプロセスから、ようやく外に抜け出せた。」と、一つフェイズが進んだことを実感できた瞬間だった。
笑おう、笑うんだ。
3.想う。
頭から離れない春馬君。
あの日以来、1日たりとも春馬君の事を考えなかった日はない。
それは今でもそう。
だったらもう、それがデフォルトで良いのではないかと思えてきた。
無理に春馬君から離れる必要もない。
私は私の頭の中に、春馬君を棲まわせることにした。
春馬君のことを考えるのが、私の「普通」。
例が適切かわからないが、例えば、亡くなった家族がいたとして、「これ、お父さん好きだったよね。」とか「おばあちゃんだったら、こう言うよね!」とか、そんな話を残された家族でする感じに似てる。
もうそこには、強い悲しみや寂しさはなく、亡くなった人たちは、いつまでも残された人たちの身近な存在であり続ける、みたいな。
しばらく春馬君のことを思い続けていると、いつしかそんな域に達する。
そうなったらそのままで良いのだと思う。
逆に、身近になり過ぎて、春馬君のことを意識しなくなることもあるだろうし、辛すぎて春馬君から離れてみたい気持ちにもなるかもしれない。
それはそれでも良い。
それは決して「春馬君のことを忘れた」ということではない。
気持ちの折り合いが付いたということだと思う。
そういう人たちの心の中には、もう春馬君の所定の位置ができたってことだから、罪悪感なく他のこと想えばいい。
想いたいように想っていい、想うんだ。
4.書く。
悲しみも、戸惑いも、頭の中でぐるぐるさせておかないで、「この気持ちは何だろうか」と、自分の中に湧き上がる感情一つ一つに言葉を当てはめて、書いてみる。
言葉にして「喋る」のでも良いけれど、「書く」ほうが形に残って、あとから読み返せるし、自分の頭の中がどんな風になっているのかが、自分でよくわかる。
私の場合は、このnoteをその場に選んだけれども、別に、こんな大げさなことまでしなくてもいいし、公開もしなくていい。
メモ帳に書くも良し、スマホのメモ機能を使ってもいいし、TwitterとかSNSで匿名でつぶやいたって何だっていい。
書くのは苦手という人も、別に誰かに見せるわけでもないから、そのあたりは気にせずに、自分の気持ちを文字にしてみよう。
そうすると、案外すっきりするものだし、不思議なもので、それを読み返した先の道が自ずと見えてくるようになる。
私なんて、思っていることのほとんどをこのnoteに書いて書いて書きまくり、ここでかなり発散させてもらったおかげで、今は、だいぶスッキリして、以前ほど、気持ちが動揺したり、迷ったり、困惑することもなくなった。
最近、記事の更新頻度が落ちているのは、そのせいでもある。
ちなみに、私は仕事でもこの手法を多用している。
何の分野か言わないけれど、私は、ある種のコンサルティングサービスみたいなことをしていて、クライアントの抱えるイシューや、スキームや自身の理解とかを図も交えながら文字にして書いてみると、問題点や進むべき方向性が浮かび上がって見えてきたりする。
要は、書くって言う作業は、自分の考えに向き合って、自分の考えを客観視することであって、そうすると、それまでにない視点を得ることもできるし、自分の考えを改めて組み立て直すのにすっごい役立つのだ。
喜びも悲しみも、何でも良いから気持ちを文字にして書いてみる、書いて書いて書きまくる、すると、その先が見えてくる。
5.共有する。
これはオプションで、できたらで良いと思う。
なぜなら、共有する相手が必要となることだから。
今って、孤独に一人で、真っ暗なトンネルを走っているように感じているかもしれない。
もしそうならば、身近でもそうでなくても、似たような感じのどなたかと、自身の気持ちを共有しあって共感しあえると、最高に心強い支えを得られることになると思う。
その共有の仕方は、話すのでも、書いたものを読んでもらうのでも、自分のやりやすい方法で構わない。
私みたいに、身近にそんな人がいない場合は、ネットの世界の中で探してみても良いと思う。
私の実生活の友人・知人や家族は、私が春馬君のことでこんなに嘆き悲しんでいるとは知らない、誰一人として。
ましてや、noteにこんなに春馬君のことを書きまくって、書けばスキとかいっぱい貰っちゃって、フォロワーも何百人も付いちゃってなんて、絶対に想像がつかないだろうし、聞いたらちょっと引くんじゃないかと思っている。
だから余計に言えない。
私は、上の「書く」作業の結果を、このnoteを通じて公表することを選んだのは、共有をする相手が身近にいないからで、ネット上で公開すれば、共感し合える人に出会えるんじゃないかと思ったから。
ちょっと文脈が違うけど、
「ここにこういう考えを持った人間がいます!」と、それ自体を公表しなければ、その先は広がらないし、誰にも出会わないし、誰にも出会わなければ共感は得られない、だから、まずはnoteでの公開を選んだ。
私の場合は、ラッキーなことに、沢山の共感をいただくことができて、これ以上の心の支えになったものはない。
ただ、noteで記事を書くって、それはそれなりに面倒くさいし、noteに書いたからって共感を得られるとも限らない。
だから、これは出来る範囲で、皆さんそれぞれに共感しあえる相手を作ったり、見つけたりしてやってみたらいいですよ、ぐらいのお勧め具合でとどめておく。
もしどこにも行き場がなくて、共有できる人も場も無くて辛い思いをしている人がいるならば、私のnoteにコメントしたり、Twitterにレスしてもらっても構わない。
タイミングによってはお返事のコメントはできないこともあるが、一つ漏らさず全部読んでいるし、私からの「スキ」とか「いいね」は、「皆さんの思いに共感したよ!一人じゃないよ!」という私からの思いだと受け取って欲しい。
誰かと気持ちを共有してほしい、共有し合って、あなたは孤独じゃないことを感じて欲しい。
シェアして、シェア!
最後に
気が向いたら、この5のステップのうち、できることから試してみて欲しいと思う。
何かが変わるきっかけになったらいいなと願う。
それから、「泣く」や「笑う」ステップの中に、春馬君の出演作以外の作品に触れることを例に挙げたけれども、これはいわば「練習」のつもり。
悲しいけれど、私たちはこれから、春馬君のいない世界を生きていかなければならない。
「春馬君の出演作ではない作品」を観ることは、その世界の入り口で、ちょっとずつ慣れて、その世界への耐性を付けていきましょうという意味合い。
春馬君の出演作以外を楽しむことは、春馬君を裏切ることには繋がらない。
むしろ、積極的に観て、応援して、日本のエンターテイメントの世界を盛り上げていったほうが、きっと春馬君の気持ちともリンクするのではないかと思う。
5つのステップなんて、大したこと書いてないじゃないか。
その通りだ。
「泣く」「笑う」「想う」「書く」「共有する」、どれも大したことではないように聞こえるだろう。
でも、半年前、この簡単に思える5つのことですら、コントロールできなくなったり、戸惑ったりして、それ以前までにはできていても、できなくなるぐらいの精神状態だったのだ。
それはそれは大きな衝撃だったんだよ、三浦春馬君の死は。
もうそれは苦しみなんだよ、苦しみ。
今もまだ悲しみが癒えない人がいるならば、そのお辛い状況、自分も経験してきたことだけに、察するに余りある。
そういう方にとっては、この5つのステップを実行するのだって、結構高いハードルかもしれない。
なので、無理はせず、自身のペースで少しずつ、気になったところを部分的にでも取り入れてみてもらえたら良いと思っている。
ただ、とにかくこれだけは知っていてほしい。
「一人じゃないですよ。」
どんなトンネルにも出口はある。
(Michael Jackson "You Are Not Alone" - すごい良い曲なのよ。だけど、「有吉反省会」を思い出してしまうのが辛いところ。笑)
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