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映画を観る、という決意をするまで

決意を言葉にする。
それがこの場で記録を残す意味であると願って。

これは、当たり前に対する私の決意。
自らの無知と怠惰を払拭するための一歩。
お恥ずかしいお話ですが、聞いて下さい。


はじめに

私、映画を観るのが苦手です。
得意も苦手もあるかってお話でございますが、
それは言ってみれば、自分の無知と向き合う
事に他ならない印象を持っているためです。

人から見聞きした先入観、と言えばそれまでですが、
構え、いえ心構えが、足枷のように
作品を見る目を、曇らせてゆくのです。

それはつまり、こういう話。

過去作を知らなければ、観る資格がない

監督の癖、出ていたよね

あのオマージュには驚いた

あれはきっと80年代作品からの引用で


何も分からない。

恥ずかしい。
あぁ、本当にお恥ずかしい。

嘆くは自らの無知。
この業界に対する、あまりある無知。

数ある著明な名作を拝見しても、
あまりに表面的にしか自分は楽しめていないと
なぜだか悲しい後味を噛み締めてしまうのです。

いえ、実際そうなのでしょう。

どうしても俳優の方にばかり目が行ってしまい、監督の意図や手法、オマージュなどは映画という
媒体において、小説の文体などより
明確に分かりづらい印象があります。

そっと含ませる映像の美学。
それは、浅学菲才の身をこうも焼き尽くす。

過去作であれば見返せば良いではないかと
そう思って必死に他の映画を観ても、
言うなればそれは劣等感から来る鑑賞であり、
そんな心持ちで映画を観て欲しいなんて
この作品を作った制作陣の方々は
誰一人思っていないでしょう。

これは失礼に当たってしまう。
ムキになって映画を観るなど。

純粋に作品の世界に没頭できず、
他の作品のカケラを探すために利用するなど
なんて、なんて失礼な行為だろう。

気付けば私は、映画を追うことを辞めていました。


これまで背景の整理と、現在

映画。
今やサブスク等メディアサービスの発達により
お手元のスマホから当たり前に、身近に、
そして手軽に楽しめるようになった
人類の叡智たる、代表的なメディアであります。

ようになった。
そんな認識があります。
つまり、前はそうではなかった。

映画との関わり方を考えてみると、
このサブスクの波が来るまでは、
映画は映画館へ行くか、もしくはDVDを
レンタルしにお店へ行くか、など、いずれにせよ
足を運んで自分から取得しに行く情報
であった印象があります。

そしてそれは、自らの足を運んだからこそ、
確かなる価値のあるものだったと。
「映画を観る」という行為を行うことに、
確固たる自発性、とも言うべきか、
多少の汗水が、そこには含まれておりました。

そして現在。
わざわざレンタル屋さんへ借りに行く必要はなく
ベッドで横になりながら鑑賞できるお手軽な
存在になりました。まして映画館へ行って楽しむ
行為は、これまでの常識とは異なり、
本当にその「行為」が好きな人だけがする
特別な行動へ変化しつつあるように思います。

閑話休題。
最近Twitterで見かけた言葉を抜粋。

「映画館で映画を見る行為とは言わば博打であり、そこに2千円を注ぎ込み、約2時間の拘束に耐えるというのはリスキーと言わざるを得ない」

確かに、と思いました。
その作品が結果的に好きか嫌いかは別にしても、
不況と物価高が拍車をかけるこの時代、
2千円をその時間にかける事すら惜しく
感じてしまう、心の痩せ細った時代です。

サブスク待ち、という発想が当たり前の今日。

今、映画を観る、とは、どういうことなのか。
考える岐路に、立ち尽くしていました。



「君たちはどう生きるか」を拝見して


(ここでは大きなネタバレはありませんが、多少映画の感想に触れる部分がありますのでご注意下さい)

ここまで映画のイメージや映画館へ行くこと、
作品との向き合い方の自分の偏見などを
つらつらと綴って参りましたが、
既にもうお気付きの方もきっと
いらっしゃることでしょう。

そう、映画、「嫌い」ではないんです。

「苦手」であると感じているだけで、
決して嫌いではないのです。

イコールで結びつきやすいこの感情ですが、
ある程度物事を客観的に考えられる年齢に
なったからなのか、苦手でも「好き」だと
思える部分を探そう、少なくとも
「苦手=嫌い」なんて悲しい人生は断ち切ろう、
と思考できるようになりました。

だから、という訳ではありませんが、
実は先日、本当に数年振りに、映画館へ行く
機会がありました。
自分一人ではまず行かなかったでしょうけれど、
たまたま友人に誘われる形で、拝見した映画。

「君たちはどう生きるか」

作品の好みや感想は一旦脇へ置いておきます。
この映画を拝見して私が思ったことは、

なんか、もうどうでもいいかな

というものでした。
決して間違えないで頂きたいのは、この感想は
かなり、本当に「良い意味で」ということです。
肩の力が抜けた、とも言いましょうか。
どうしても前述のような思い出や思考が後髪を
引く中で、この作品は一つの救いのように思えました。

言ってみれば、引用やオマージュを
追い掛ければ追い掛けれるほど、
作品の主題とかけ離れて行くような
そんな作品だったためです。

作品を拝見した後、Twitterやブログ等で
考察をされている方が大勢いらっしゃいました。
あまり映画を見ない私からしても、
スタジオジブリ作品には多少の覚えがあったため、
あぁ、いつか観た景色に通ずるな、とか
これはあの作品の背景を連想させたいのかな、
とか、とかとか。確かにあったのです。

しかし。
しかしです。
それが、かの作品の一体何だというのでしょう。

過去作のオマージュを見つけるために、
我々はあの映画を観に行った訳ではありません。
ものすごく細かいカットについて、
それはもう鬼の首を取ったかのように
あらゆる要素に結び付けて語る方々を大勢
見かけました。

勿論、それも作品の楽しみ方であることを
承知して、それでもあえて、言葉に致します。

違うでしょう、と。

宮崎駿監督の最後の作品になる、とか、
少なくとも晩年の作品であることは
間違いであろう今作。
メッセージ性よりも描写力やイメージの
伝え方に比重を置いた印象を受けましたが、
それでも、過去作のオマージュや引用ばかりを
してもらうために描いたものではないでしょう。

君たちは、どう生きるか。

個人的な受け取り方は、
宮崎駿監督は、これまでこうして生きてきた。
こうした時代に、こうした経験の中で、
こんな事を考えながら、生きてきた。
何かを観る中でイメージを描き、
何かを聞く中で世界を創造してきた。
私はこうやって、生きてきた。
で、君たちは。
そんな作品なのかなと思います。

すごく、肩の力が抜けました。
構えて見る方が違う気がする。
躍起になって引用を探す方が主題から離れて行く。
きっと途中に散りばめられた場面ばかりを
追っていては、この作品が本当はどういう
映画なのかを、何も理解できない。

気付けば、これまでの苦手意識から、
そっと救い上げてもらうような心持ちでした。

そして、心の枷が一つ取れたことから
芽生えた感情があります。

観よう、映画。

気付けばつまらない大人になっていました。
分からない事を避け、演出も理解しようとせず、
過去作を観る時間も……と言い訳を探す毎日。

大人になる、というのはこんな事じゃない。
言い訳の前に、取り戻そう、楽しむ余裕を。

分からないなら、勉強すればいいのです。
観よう、たくさん観よう、映画。
聞いたことあるけど知らない映画、全部観よう。
もう全部。全部観よう。

劇場から出た時には、こんな清々しい思いは
本当に久しぶりだと深呼吸をしました。

これは皮肉でもなんでもなく。
「これも、映画の力かしら」
と心の中で笑ってしまいました。



おしまいに

気付けば3千字。
長々とお付き合い頂きありがとうございました。

こうした場において決意表明をしたのは、
ある意味、自分の弱い心を奮い立たせるためです。
せっかくマガジンという機能もありますし、
映画の鑑賞記録をつけている方も拝見しました。
自分も記録、つけてみようかな。

足跡を残す。
そう決めて始めたnoteです。
拙い文書ではありますが、
よろしければ今後もお付き合い下さい。

差しあたって、最初に見る映画は何が良いでしょう。
いっそ白黒のローマの休日あたりから
始めてみようかしら。
そのあたりから始めた場合、
現在に追い付くまでにどれほどかかるかしら…

はてさて。
これもまた良い旅になりますように。

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