戦時中の祖母の話【実話】
皆様如何お過ごしでしょうか、久賀地知明です。
今回はタイトル通り、祖母が体験した第二次世界大戦、戦時中の話です。
どういった日常を送っていたのか、という話になります。
何故そんな話になったのかざっくりと説明するところから始めたいと思います。
今からほぼ一年前に祖父が亡くなり、その法要の準備の為に帰省していました。
祖父は震災により家を失ったショックと年齢のせいもあり、年々ボケが進行していました。祖母は元々祖父のみならず家族の世話をするのが最早趣味と言っていいほどの人で、祖父のボケが進行してより世話をするようになっていました。金婚式もとうに過ぎている二人は、傍目に見ても深い愛のある夫婦だったと思います。
祖母はもう90歳を越していますがなかなかに頭がしっかりしており、かいがいしく世話していたのですが、祖父が亡くなってからはやはり落ち込んでしまいました。高齢の方あるあるだとは思いますが、同じ話を繰り返し話す様になったのもこの前後です。
現在、私の両親とともに暮らしていますが、毎日一緒にいる相手ですし、話す内容もそんなに多くはありません。とは言えよく話す方かもしれませんが如何せん同じ話を繰り返すので、両親もそれなりで返答しているようです。
そんな状況ですし、祖母は刺激が欲しいなと思うのは、まあ当然かもしれません。
故に私や兄弟、あるいは他の親類が来たときにはよく話しかけに来てくれます。
今回も流れとしてはいつもと同じでした。
「バス代は今いくらか」「仕事はどうだ」「元気にしてるか」
そして
「ご飯はいつも食べれているか」
という話題になった時、祖母が当時の話をし始めました。
当時、女学校四年生(高校一年)の時。
祖母は学徒動員によって、歩いて一時間程かかる工場へ働きに出ていました。
工場は三菱のもので、作っていたのは戦闘機用の「ネジ」。
祖母の学年は2クラスあり、祖母のクラスはネジを作り、もう1つのクラスは金属の板の加工(恐らくバリ取りの様な)を担当していたそうです。
日勤の場合は八時から出向き、夜勤の場合は昼の三時か四時から出向いて夜の十一時まで働いていました。まあほぼ八時間勤務です。
日勤の場合、朝の六時には家か寮を出ていましたが、当時街灯などありませんし(今でも無いに等しい田舎ですが)夜に電気を点けるのはご法度。もし戦闘機が来たら空から見えてしまいますから。その為すぐに消せるように提灯を持って家を出、出勤途中で朝日を浴びる様な日々でした。
はちまきもしっかりしていたそうです。
勿論戦時中ですから空襲警報が鳴る事があります。
その際は近くの防空壕に逃げ込むか、出勤退勤途中であれば、山中に逃げ込むか防空壕へと走りこんだんだそうです。幸い、山が近い事もあって空襲の被害はそう多くは無かったようでした。
ご飯は基本的に
・麦飯
・味噌汁
・たくあん二切れ
お弁当も似たようなもので
・麦飯にからいもとひじきを混ぜたもの
・たくあん二切れ
・もしあれば野菜
というラインナップ。これが毎日毎日続くのです。配給制度のせいもあり白い米というのは貴重だったのです。私達若い世代は健康の為に五穀米だったりを食べますが、高齢の方があまり食さず白い米を食べるのはこういう事だったんだなと実感しました。
また、月に一回あるかないか、お昼にカレーが出る事もあったそうなのですが、そのカレーに入っている肉が一体何の肉だったのか、今でも分かっていないそうです。
牛や豚が現在は主流ですが、果たしてウサギか鳥か犬か猫か。
加えて甘い物も無かったらしく、蒸かしたからいもか大豆やそのほかの豆類をお菓子として食べていたそうです。
「今はなんでもあるけど昔は本当に何も無かった。だからあんたはしっかり食べなさい」
現在庭の畑には野菜が数種類植えられていますが、戦時中、戦後は桑畑(カイコを飼育するための畑)だったそうで、農地解放(農地改革)で取り上げられはしませんでした。
しかし、田んぼはそうはいかなかったらしく、元がどれだけあったのかは不明ですが、一町(1ヘクタール=3000坪=約100×100M)までに減りました。
以前は小作人の方から貸付料として米を頂いていましたが、それが殆ど無くなったそうです。
祖母曰く、「一反(十反=一町)につき米三俵を地主に渡さなん」だったらしく、それが無くなるのはやはり痛手だったと言います。
家系図や本家分家の区分けが私には不明なので細かい事は分かりませんが、私の家は分家の方にあたるらしく、元々の年貢?は本家の方が大きくもらっていたそうです。
少なくなった収穫ですが、それでも節約して残しておき、物々交換の品にしました。今でこそなんでもある時代ですが、食料に関してはやはり田舎にあるもの。
都会の人は米を確保する手段が限られているため、着物などを持って田舎に出向き、米や野菜と交換していたそうです。
闇市なんかもありましたが、田舎に行った方が確実だったのでしょう。ぼったくりなども少ないでしょうしね。
短かったですが、ここまでが祖母より聞いた話です。祖母はこういう生活だったと私に伝えただけで、どう思っていたのかは特に話しませんでした。またいつか聞けたらと思います。
我が家が地主だったとか知らなかったですし、戦時中の生活を直接聞けたのはとても良い経験でした。
映画やドラマで散々語られてきた事が主でしたが、それくらいどこにでもありふれていて、皆同じような経験をしていたのでしょう。
臭い感じで終わらせますが……
災害は今の科学では防げませんが、戦争は防げるはずです。
ちょっと優しく思いやるだけで十分なはずなんです。ウクライナしかりLGBTしかり、街で起こる小さな諍いしかり。
残念ながら人間はまだそんな単純な事が出来ず、人を傷つけ、呪い、殺してしまう。
結果、怪談や心霊というジャンルがあるのです。
ある意味で悲しいジャンルとも言えます。
私はそれを背景に据え、発信していくことで、反面教師的に「人を思いやる心」を伝えていければいいなと思います。
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