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うとうと休むのは悪いことじゃない。

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
新約聖書 マタイによる福音書 25章1-13節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

野球を観るのが好きです。生粋の大阪人なもので、子どもの頃から阪神タイガースを応援して育ってきました。今シーズンもどこかで一回くらいは球場に行って観戦したいな~と思ったりしています。

普段はもっぱらテレビ中継を観ているのですが、たまたま観ていた試合の解説者が「油断」という言葉をよく使っていました。
「油断したのかもしれませんね」「今のは油断せずよく見ていましたね」
プロの選手が試合中に油断なんかするもんなんやろか……などと考えながら聞いていて、ふと「油断」ってなんか面白い言葉だなと思いました。

試しに調べてみたら、王様が家臣に油を持たせて、「一滴でもこぼしたらいのちを断つ」と命じたという話からこの語が生じた、とする説があるそうです。
怖過ぎる。「油断」、重過ぎる。絶対油断できん。

そんな話とは別に、私が「油断」という言葉から思い出したのは冒頭に引用した聖書箇所。「十人のおとめ」のたとえ話です。

十人のおとめのうち五人は賢くて、五人は愚かでした。
彼女たちは花婿が来るのを待っていましたが、花婿の到着が遅れ、皆眠り込んでしまいます。ようやく花婿が来たところ、愚かなおとめたちにはともし火はあるのに予備の油がありません。仕方なく慌てて買いに出たものの、戻った時には婚宴に間に合いませんでした、というお話。

まあたとえ話なので、「婚宴は神の国の象徴」とか「ともし火は信仰」とかいろんな解釈ができるのですが、私がこの話で面白いな~と思うのは、賢いおとめも愚かなおとめもみんな眠り込んでしまっていたというところ。

賢いおとめはまどろむことなく花婿の到着を待っておりました、だから花婿が来た時にはすぐに迎えに出て、婚宴の場へと入ることができたのでした。キリッ!

……という話ではない。賢いおとめも愚かなおとめもみんな寝てる。「そこ、寝るのはええんや?」ってツッコんじゃうんですよね(笑)

そっか、くたびれたら寝ちゃってもいいんやんね。それも自然なことやんね。休んじゃダメ、いつも気を張っていろというような厳しいことはイエスさまは言ってないんやな~。ただ、「寝ちゃうこともあるけど、後々のこともちょっとは考えておきなさいよ」と言ってはるのかな~。

聖書解釈としては「正しい」ものではないだろうけれど、そんなことを思います。

真面目だったり熱心だったりする人ほど、気を抜いたり休んだりすることに躊躇を覚えがちです。でも、休む時には休んでいいんですよ、きっと。その分、潤いや豊かさを思わせる「油」みたいなものが後にとっておけるような、そんなゆとりがあればいいのかな~なんて思ったりしました。その豊かさで、暗い道のりを照らせればいいですよね。

夏休みに入る頃です。お勤めの方はなかなか「夏休み」と言えるほどゆっくりできる機会は無いのかもしれませんが、大人も子どもも「休んでゆっくりすること」は認めて大事に確保して、その「目覚めた後」にちゃんと目指すべきところへ向かっていける備えができたらいいなと思います。

私はこの夏はもう少し本を読むこと、韓国語勉強も頑張ること、それが書道にチャレンジしてみることが目標です。
学生の皆さん、宿題や勉強も大事でしょうけれど、ちょっと力を抜いてまどろんだりもしながら、楽しく安全で健やかな夏休みをお過ごしください(^^♪


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