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私が蒔いた種を、神さまが喜んで育ててくださっている……と思う。

わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
新約聖書 コリントの信徒への手紙一 3章6-7節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員として働く牧師です。

……というご挨拶で毎回の記事を書き始めておりますが、この「牧師」と言いつつ学校で働く立場のことを、私の属する教団では「教務教師」と呼んでいます。
教会の牧師の働きは、教会に集まる人が相手です。その多くはすでにキリスト教の信仰を持っている人で、中にはもちろん「まだ洗礼を受けていません」という人もいますが、そういう人であってもわざわざ「教会」というところに足を運んでいるという点では、「キリスト教に関心がある、教会という場所に何かしら価値を見出している」というところが共通しています。
一方私のような教務教師は、生徒さんたちが相手です。そして生徒さんたちの多くはノンクリスチャンです。学校に入学して初めて聖書を手にする人たち、この日本社会において「信仰を持つ」という生き方に親しみを持たない人たちが相手です。
だからこそ新鮮で、面白い、やりがいを感じる部分もあります。でも時々、自分の信仰者としての生き方が、牧師としての働きが、喜ばれていないんじゃないか、受け入れられていないんじゃないか、と思って落ち込むこともあります。

思春期真っ只中の、ただでさえしんどい時期。自分の生き方に迷う彼らにとって、自分と異なる「信仰を持つ」という生き方は、「それに反発する」という形で糧となる部分もあるでしょう。また、今は共感が難しくても、「そんな生き方もあるんだな」と知っておいてもらうことで、将来的にどこかで「教会という場所がある、信じるという生き方がある」と思い出してくれたらいいのだと思ってもいます。

ただ私も人間なので、自分のコンディションが悪くなって自信を持てなくなってくると、「ああ、私の働きって無意味なんだろうか。むしろ疎まれているんじゃないか。神さまさえも喜んでおられないんじゃないか」と負のループに落ち込んでしまいます。何せ自虐クドウなんでね、こういうこと考え出すとノンストップで走り出しちゃうんですよね。てへ。(わろてる場合ではない)

そんな中、嬉しいことがありました。私の属する教会に卒業生が訪ねて来てくれたのです。
私は日頃は学校で働いているので、教会で奉仕をする機会は少ないのですが、この日はたまたま私が説教(礼拝の中で聖書のお話をすること)を担当していました。会堂を見渡していて、「見慣れないお若い夫婦がいるなぁ。どなたか教会の方のご親戚かなぁ」と思っていたのですが、礼拝後お声掛けくださって、卒業生であることが分かりました。中高生の頃は明るく元気いっぱいな生徒さんでしたが、ずいぶん落ち着いた素敵な大人に変貌しておられて、全く分からなかった! おしゃべりしてみたら「ああ、この人だこの人だ!」って感じたけども。

この日の説教の冒頭で、先に述べた「教務教師あるある」のような私の話を引き合いに出したのですが、その卒業生はそれを聞いて「あの頃私も先生を疲れさせていたなぁと思いながら聞きました……」と言ってくれました。いやいや、あなたたちとの交わりの日々はほんと楽しかったよ、今思い出しても。
そして、「健康は大丈夫ですか。まだまだたくさんの生徒さんを先生が導いていってくれないと!」って言ってくださったんですよね。

あー、思い出しても涙が出る(笑)

もちろん前述の通り「素敵な大人」になっておられるので、場に即した社交辞令として言ってくださった部分もあると思います。でも、あの頃にはただわちゃわちゃしていただけのような交わりの日々の中で、この人が何かしら「導きを与えられた」と思ってくれていたのなら、そして十数年経ってそのことが今日礼拝に足を運ぶということに繋がってくれたというなら、こんな嬉しいことはないな、と思ったのでした。

「バスの運転手さんにお礼を言うかどうか問題」みたいなのをたまに聞きます。お金も払っているんだからそんなのわざわざ言わなくていいじゃないか、という人も一定数おられるんでしょうけれども、でもバスが無事に運行されなければ本当にたくさんの人が困ります。そういう意味では、「ありがとう」と口にしようがしまいが、みんな本当にありがたく思っているし、支えられているし、その働きは無くてはならないものと認識されているはずです。

つまり、感謝を口に出して伝える人は、感謝を感じている人のうちのごく一部だということです。

ということは。今回私はこんな風に直接温かい言葉をもらえる機会が与えられたけれど。もしかしたら、もしかしたら、この何倍かの人たちは「あなたの働きは悪くなかったよ、一定の意味があったよ」と思ってくれているのかもしれません。いや、私のような者の力ではその数はそんなに多くないだろうとは思うけども……。(また出て来る自虐クドウ)

自分の働きに意味があるか無いか、どのくらいの価値があるか、ということは、自分にはなかなか分からないものですね。
弱い私は時々「お前なかなか頑張っとるぞ」と神さまからの分かりやすいお褒めの言葉や励ましがもらえたらいいのにと思ってしまうけれど、そういうものが無くてもちゃんと神さまは私になすべき務めを与え、それを祝福してくださっているのでしょうね。

もちろん私だけではなくて、私以上に、これを読んでくださっているあなたのことも、神さまは喜びをもって見詰め、さらなる恵みを与え、祝福してくださっていると信じます。

冒頭に引用した聖句にあるように、種を蒔く者、水を注ぐ者、それぞれになすべき務めが与えられているけれど、その結果の部分を分かりやすく受け取ったり、それによって賞賛される人はいないのかもしれません。そして、それでいいのかもしれません。分かりやすい賞賛に繋がってしまうと、私たちは本来の志を見失うから。賞賛は、賛美は、神さまに向けられればいい。
「私が種を蒔いても意味があるのかな」と不安になったとしても、ちゃんとその営みは神さまの大きな計画の中に組み込まれていて、神さまに喜んでもらえている。そう信じて、日々の働きをただ誠実に、コツコツと続けていくしかないんだなと思いました。

たまにこんなご褒美みたいな嬉しい言葉や再会の喜びを、神さまは与えてくださるんですね。神さま、もうちょっとその頻度上げてもらってもいいですよ……なんて思ったりもしますが(笑)
「息継ぎ」のようなこんな恵みに助けられながら、えっちらおっちらこれからも頑張ってみようと思ったのでした。


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