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平井俊徳の村々探訪 故事伝説・民話を巡る

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高千穂郷を中心とした村々の歴史を基に、自分で歩いて見たものや、聞いたこと。 そして、知識として得たことを紹介出来たらなと思っています。
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天孫降臨の地 高千穂

天孫降臨の地 高千穂

高千穂町が天孫降臨の地という事は言うまでもないが、今町民のどれくらいが、わが町高千穂は天孫降臨の地だと自信を持って言えるだろうか?

何となく、知ってはいるけど、どういう神話や伝承が残っていて、神社にはどんな神様が祀られているのか?

僕自身、全般に詳しいわけでもなく、まだまだ勉強している身であるが、改めて、ここ高千穂は天孫降臨の地である!と、自信を持って言えるように勉強していこうと思っている。

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西栄山浄専寺

西栄山浄専寺

五ヶ瀬町三ヶ所宮の原にある西栄山浄専寺がある。

元和「げんな」元年(1615)後藤孫太夫という者が入道し、釈宗願といい、浄土真宗浄専寺を開基した。

第2代常清の時、明暦3年(1657)本尊木仏寺号御免となり、西栄山浄専寺となった。

木仏寺号とは、一寺となるために、本山から寺号が免許されなくてはならず、本山が木仏を下付する際に木仏裏書に寺号を記載して、願主に渡す事であるという。

より引用。

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田の中の伯楽天様

田の中の伯楽天様

岩戸、東岸寺区、左右殿(そうどの)地区には、田の中に目立った石碑が建っている。

東岸寺とは名の通り、寺号が集落の名前にもなっており、元禄4年(1691)の仏閣法には「薬師、東岸寺村」と書かれているそうです。

開基は1200年頃後鳥羽上皇の第3皇子である寒厳禅師と言われ、天文14年(1545)に三田井越前守親武(三田井家最後の城主)が再建したとされています。

高千穂町内には寒厳禅師の開基といわ

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荒立神社 夏祭り

荒立神社 夏祭り

例年7月29日には荒立神社において夏の大祭が行われる。

祭りに向けて、地元住民による駐車場の草刈りやしめ縄作り、茅の輪作りがある。

茅の輪は神社の拝殿入り口に飾られる。

茅の輪とは夏越の祓いとして、茅で作った輪を通る事で、身を清め、無病息災、家内安全を願うものである。

茅の輪くぐりは唱え詞を唱えながら8の字を描くように左回り、右回り、また、左回りとする。

由来は備後の国で暮らしていた蘇民

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土持氏の第二の居城 西階城 再び

土持氏の第二の居城 西階城 再び

改めて城廻りをしてみた。

以前まとめたものをまずはご覧いただきたい。

さて、ここは延岡市西階。

金堂ヶ池の北側に城跡がある。

ただし、看板はしっかりあるわけではないので正直分かりづらい。

この看板はテニスコートより横の道を登っていくと戦没者慰霊塔があり、そこから西側の山の中へ行く前にある。
よって、テニスコート側より目指す方が分かりやすいと思う。

このように、二の丸、本丸近辺には堀切や

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佐藤越後守

佐藤越後守

ついに天正6年、大友と島津の争いが始まった。

まずは秋月と繋がりがある吉村氏(旧姓が秋月氏)が守る玄武城を攻めた。これは、三田井氏を倒し高千穂を奪うため、土持氏と密に通じていたと評が流れていたからであるが、秋月氏は大友氏とも対立関係にあったものによるのが1番だと思う。

玄武城を落とした大友勢は島津方と通じている日向の入り口を阻む土持氏をは倒そうと縣の松尾城へ兵を向けた。

ところが、大友本隊が

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甲斐宗摂 其の2

甲斐宗摂 其の2

主君である三田井親武を討った不忠者である甲斐宗摂。

いろいろな説があるが、「高千穂治乱記」には

「もしそなたが協力してくれたら、私が太閤殿下に御とりなししましょう」

と言い、利を求め元種の策に同意した。

宗摂は三田井家の中でも重臣であり、城の中も知り尽くしている。

夜中に三田井親武公の御寝所へ忍び込み、手槍にて一突き、御首を討った。その後火を放ち、「三田井親武が首、高橋が軍兵討ち取ったり

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甲斐宗摂 其の1

甲斐宗摂 其の1

慶長4年(1599)高千穂48塁の一つである現日之影町の中崎城主、甲斐宗摂は縣藩主、高橋元種に攻められ、高千穂町と日之影町の堺、鶴の平で自決しようとしたところ、元種の追手、又助は切腹する前に首を落としたという。

これにより、戦国領主である甲斐氏は滅びた。

今でも日之影町大人地区では生前宗摂が好きだったという歌舞伎が伝承されて、大人神社に『宗摂八幡』として合祀され、村人からも慕われていたことが分

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土持氏の次の居城 西階城

土持氏の次の居城 西階城

「延陵世鑑」(白瀬永年による歴史書 1799)によると、永享元年(1429)、土持全宣(やすのぶ)は、約100年間拠点にした井上城より宝坂城(西階城)へ移ったとある。

約16年間居城したという。

また、「延陵旧記」によると、土持日向守、大貫村に西かいの城を築城し20年居城したと記されている。

どちらにしても約20年という短い期間であったようだ。

災難が多く、松尾城へ移ったということだが、五

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土持氏の最初の居城 井上城

土持氏の最初の居城 井上城

以前まとめた土持一族が築いたとされる井上城を紹介したいと思う。

土持氏についてはこちらをご覧いただきたい。

延岡市にある恒富中学校のちょうど真向かいに『天守山』という山がある。

入り口には案内看板もある。

城郭跡までは、およそ歩いて10分程だろうか。

正確な資料がないため、信憑性にはやや欠けるところもあるが、平安時代末期。

平家の専制政治に世の人たちの不満は爆発。

源頼朝が挙兵するこ

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河内 亀頭山城

河内 亀頭山城

高千穂町河内地区は竹田、肥後国への交通要衝であり、江戸時代には関所も設けられた場所である。

土持氏に代わり、延岡城主となった高橋元種は高千穂を攻めた。

三田井家家臣、甲斐宗摂と内応し三田井親武を滅し、仲山城は落城した。

その後も大野原亀山城も攻め滅ぼし、徐々に勢力を伸ばしていく。

文禄3年(1594)8月、高橋元種は河内にある亀頭山城を攻めた。

この城は、自然の丘陵を利用した山城で、周り

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大火を免れた地蔵尊 集雲山龍泉寺

大火を免れた地蔵尊 集雲山龍泉寺

大友宗麟勢は豊後より日向国、縣を目指した際、高千穂側から入ってきた別動隊は町内の寺社仏閣を焼き払ったという。

大友宗麟は熱心なキリスト教で、キリスト以外には神仏はないという考えにより、その他の寺社仏閣は邪教であると、縣までの道筋の寺社仏閣を焼き払っている。

町内の主な個所は、熊野神社、植野八幡社、二上神社、今山寺、鶏足寺、そして今回取り上げた龍泉寺である。

看板にもあるように、開山は仁皇82

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血筋絶やさん土持氏 その③

血筋絶やさん土持氏 その③

玄武城を落とすと、大友軍は三田井に進み、三田井の兵を加えて県へ向かった。

まだ攻め始める前、大友が日向攻めをするという噂が耳に入り、土持には頼りになるのが島津しかおらず、島津に親成の養子である高信は薩摩へ向かい、もしもの時は援軍を出してくれるよう依頼しに行ったのだった。

しかしながら、確約はしてもらえず高信は傷心のまま帰ってきた。

ちょうどその時、大友の使者が松尾城を訪れ、高信が薩摩から帰っ

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血筋絶やさん土持氏 その②

血筋絶やさん土持氏 その②

時は戦国。

南北朝時代、戦いに明け暮れた70年近い時代を乗り切った土持一族。

土地の支配、所有関係はすっかり乱れ、日向国では、12世紀末鎌倉幕府命により日向入りした伊東氏が急激に勢力を拡大し、土持氏とも婚姻関係を結ぶなど、領地を広げ、室町時代になると、更に土持氏との関係が悪化していく。

時代の流れと共に、土持一族は徐々に衰え始め、長禄元年(1457)「小浪川の合戦」において、財部土持氏、土持

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