美大卒業後デザイナーとして働いていた私がアートに復活するまでの話
東京芸大生は卒業後半分くらいは行方不明と紹介した書籍がありました。それほど日本で美大生が活躍する場は限られていて食ベていくのはむづかしいのです。
私とものづくり
私にとって作ることはまるで呼吸することのようでした。物心ついた時から絵を描いたり立体を作ったり、、気がつくと何かを作っていていました。父は建築業、母も絵が趣味、自然と物を作る環境に育ったことも影響したのでしょうか。
学校に行っても授業中はノートにずっと絵を描いていて、毎年ノートはスケッチブックと化していました。
地方の高校を卒業後、美大受験予備校で2年間浪人し多摩美に入学、美大卒業後は作家活動を継続したかったのですが、家族が大病をしていたことで大学卒業後は働く事が絶対条件でした。
正直いうと大学院進学や海外への留学も興味がありました。家の状況は大学を卒業するだけで精一杯、ただでさえ生活が厳しかったのに、アートや作品制作で何かをすることは不可能でした。
というのも、日本のアートシーンは市場が小さくアートで生活することをは厳しいのが現状だからです。
そのため、美大卒業後は企業のデザイン室に就職、商品の企画デザインの仕事につき、その後印刷の仕事を経験したのち、IT企業で働くようになりました。
働きながらもどうしても作品制作を諦めきれずに、時折作品を作るうち、知人からグループ展の誘いを受け展示をしたことがきっかけとなりイラストの発表を再開しました。イラストを選んだのは今思うと"アートでは無理だろう"という気持ちがどこかに残っていたからでしょう。
NYのグループ展に参加し外の世界を知る
そんな中でイラストレーターとしてNewYorkのグループ展示に参加する機会に恵まれました。NYにいる幼馴染の家に泊まりグループ展に参加し、滞在中はひたすらNYのギャラリーや美術館を回りました。
そこで日本では不可能だと思っていた"アーティスト"としての活動が可能な世界に触れたのです。外の世界には希望が広がっていました。
その後この展示をきっかけに何度か海外展示に参加させていただく機会もいただきました。
生きることを考え直した2011年
2011年の年明け、いつもはそれほど連絡がない母から一本の電話がかかってきました。珍しい、何だろうと一抹の不安がよぎります。父の病気が再発しかなり重篤なようで、
桜の咲く時期まで持たない
と医師に言われたという連絡です。当時は都内のIT企業で深夜まで忙しく働いていましたが、それから仕事の合間に東京と実家を行き来する日々が続きました。
そんな中で、東日本大震災が起こりました。
東北地方の甚大な被害状況、1日になんども大きな余震が続き最寄りの駅はクローズしたまま、、日常が日常でなくなりました。
余震で揺れる中も遅れがちな電車に乗り地元の病院に戻ります。地元は東京での揺れが嘘のような春のひだまりが穏やかな世界、その中で日々会話ができなくなっていく父。まるで過去に置いてきてしまった世界のようにも感じられました。
東北地方では昨日までの当たり前の生活ができなくなり、昨日まで元気だったはずの人がなくなり、治療を受けることもできない。このギャップを交互に体験しどう状況を捉えればいいのか整理ができませんでした。
そして春の終わりに穏やかに父がなくなりました。葬儀は「見ることができない」と言われた桜が満開に咲く中でした。
諦める理由がなくなったあとで
日常が落ち着きを取り戻すまで数ヶ月の間慌ただしく日々が過ぎて行きました。再び仕事に忙しい毎日。ITのユーザーグループに参加し最新のデザイントレンドやWEBの技術を学び、確かに仕事は充実していました。
だけど心の中でふつふつと湧き上がってくる思いがありました。
諦めてきた理由はなくなった、もう我慢する必要はないよね、自分の人生もいつどうなるかわからない。だったら、やりたいことをやろう。縛っているのは自分自身だ、と。
ここか、本格的に作品制作を再開するまでもう少し時間がかかりますが、一旦仕事の勉強時間を抑え、本気で作家活動を復活することになりました。その過程の
・改めて現代アートの勉強しながら作家として活動を再開していく話
・制作時間がなくて、仕事の昼休みに六本木ヒルズのソファーで作品を作ってた話、
・制作費用や活動費用で貧乏すぎてシャレにならなかった話
・徐々に活動が広がった話
作家として動き始めてからある程度道ができるまで、いや、今でも紆余曲折の連続です。夢に向かっていく話や笑えるネタは盛りだくさんでここでは語りきれません。それらのお話はまた次の機会にご紹介できればと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました
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