文末表現の「た」について2:おはなしを書くこと8


こんにちは、くぼ英樹(筆名を一部漢字にしました。元くぼひでき)です。売れてない作家をやっています。ジャンルは児童文です(児童文学というほうが一般的です)。

創作論の8つめです。前回の続きで、Youtubeのとあるチャンネルから受けた大きな示唆から、小説や物語の文章についてよく質問される「文末表現」について考えてみました。
 それをYoutubeチャンネルは「ゆる言語ラジオ」様で、この「た」について対談された6回の動画をリストにしてみました。できれば全部ご覧いただけたらと思いますがとても長いので(3時間14分ある)、そこからこの創作の文末表現にどう使うかを考えてみます。(動画は前記事を御覧ください)。

といっても、この動画のなかで「創作の文章として、こうこうだ」とは言ってらっしゃいません。動画はあくまで言語学的に「た」を考えてみようというものです。
 たとえば、「た」って過去形でしょ?という素朴な考えを木っ端微塵にしていきます。動画の冒頭では、過去に限らず現在や未来にだって「た」を使うよねと。
 いわく、「そうだ、あした彼女の誕生日だったわー」とか、「あ、バスが来たよ」とか。これ、あしたのことだから未来ですよね。今バスが到着したのだから現在ですよね。
 なのに「た」が使われている。
 単純に「過去形」というにはおかしいんじゃない?
 という感じで始まる全6回の動画なんです(ほんと全部見てほしい)。それはそれで楽しんでいただければと思います。

文章初心者のよくある質問とは

上記の再生リストにはこういう惹句を置きました(前回も書いたので既に読んでいる人は飛ばしてね)。

 創作でよく質問にあがる文末表現とくに過去形、完了形、現在形などの使い分けについて、たいへん示唆のある会話でした。
 もちろん全面解決ではありませんが、創作するうえで日本語をなんとなく使っているものの、何故そうなっているかはきちんと説明できません。これは言語学者でも同じで、ずーっと論争・究明をし続けている問題なのです。
 しかし創作においては、ずっと非確定にしておけるわけもなく、一文一文ごとに考えるわけです。
 そのとき、何故「た」のほうがいいのか、何故「ている」のほうがいいのか、何故「~する」のほうがいいのか。
 基本的には勘でやっており、いちいち大きな決定はしていない。まれに決定に悩むときがある。
 悩むとき、なにをもって決定するかと言えば、それが「自分(作家)の演出的にOKかどうか」。ここに尽きるわけです。
 この演出を考えるうえで、ゆる言語ラジオさまがアップされたこの『「た」を巡る物語』は参考になるものと思われます。

わたしのYoutubeアカウントの再生リストより

創作教室などをしていると、よく聞かれる質問というのがあるんですね。とくに初心者の人に多いのが、次の3つです。

  • アイデアの出しかた・まとめかた

  • 物語の構成

  • 言葉の使いかた・文章の書きかた

それぞれとても大事なところだと思うんです。
 まだ書き始めたばかりの人で特に意識的にプロを目指しているのではないと、なんとなくスタートして、頑張って色々書いて、なんとか終わらせるということが多いのではないかと。
 わたしもそうでした。そして今でも短い話ならそうします。短ければインスピレーションと、無意識に出てくる技術とで作れることも多いですから。
 アイデアと構成についてはまたいずれやることにして、ここでいう「無意識に出てくる技術」というのが初心者の人には難しいらしいのです。
 たくさん読んで、たくさん書けば身につくんですよ。と、教室では言うのですが、じゃあ「何読めばいいか(特にこれは読んでおけみたいな本は?)」とか、「どれだけ書けばいいのか」とか聞かれるんです。でもそれらは人によって違いますから答えられません。
 しかしながら、少なくとも基本的な技術については教えることができます。その一つが「伝わる日本語の書き方」です。

大事なのは

いろいろな習い事、どれも最初は簡単な所作から入りますよね。基本の形みたいなのがあったり、そもそも立ち振舞いや姿勢だとか、道具の持ち方とか視線の置き方とか。
 文章も同じで、そういうのがあります。
 伝わる日本語。
 これが物語における基本です。

ところが実はこれがわかってもらいにくい。
 というのも、日本で生まれて日本で育っている人はふだんから日本語を使って暮らしているからです。それでうまくやれてるから、書くときの文章だってうまくやれてる(少なくとも下手ではない)と思ってしまうんですね。
 これは訛り(なまり)と標準語の関係に似ています。
 訛りは正直すばらしいもので残すべきですが、しかし上京して暮らしていると自分の言葉が訛っているということに気づいて、恥ずかしい思いをしたという話を聞くことがあります。自分では標準語を話していたと思っていたのに……。
 文章にも訛りや方言があります。地域の言葉を使うというのではなくて、自分が当たり前に思っているものが当たり前じゃなかったという部分で、訛りや方言が出てくる。
 このあたり長くなるので割愛しますが、自分の書く日本語はもしかするとふつうの日本語にすらなってないかもしれないという考えは持っておいたほうがいいです。

そこで出てくるのが「個性」という問題、というか反論材料。
 小説や物語は表現芸術ですから、そこに表された言葉遣い=表現は個性的であるほうがいいんですね。
 じゃあ、文章の訛りや方言は作者の個性なんだからそのままでいいじゃないかというと、そうとは限らない。
 基本は、無難に伝わる日本語。それが9割以上。残りの1割以下がその人において個性的な言葉遣いになればいいかなと思うんです。といっても程度問題で、その1割がまったく理解できないと困るんですよね。
 ここでいうのは、たとえば沖縄の老人が古い言葉・セリフをそのまま音写して使うとかそういうものを指してはいません。それはその人物・キャラクターの発話の問題であって、作者の言葉遣いとは違うベクトルで語るべきものです。
 また、よく見かける誤解された語彙とも違います。一応を「いちよう=一様」と間違えてるとか、「延々と続く」を「永遠と続く」と言ってみたりとかではありません(「永遠に続く」なら言えるんですが)。

無難に伝わらない日本語のほとんどは、文章に論理性がありません。だから伝わらないのです。
・ぼくはあした、給食の時間です。
という文があったとして、読者が想像力を働かせて「あしたの楽しみは」と言いたいのかなとか補ってくれると思ってはいけないのです。
 読者が本来想像力を必要としないところで、余計な想像力を使わせない。それが文章に論理性をもたせるということです。
 まずこれ、「伝わる日本語」のできることが基本です。

ようやく本題

無難に伝わる日本語ができた上で出てくる質問というのがあります。
 小説や物語での文章は大きく地の文とセリフとに大きく分かれますが、主にこの地の文での悩み、とくに文末表現について聞かれます。
 文末が「た」ばかりだと、単調な気がして(味気ない気がして、ダサく感じられて)変えたいんですけど、どうしたらいいですか? という質問が出てくるのですね。
 これを聞いてこない人は、最初から上手な人か、自分の文章の変さに気づいてないかのどちらかです。
 この文末表現は、だいたいの作家さんはおそらく勘で入れていて、それが上手です。
 しかし初心者の人は上手じゃない人が多いんですよ。文章全部の文末が変だというようなことは有り得ませんが、ところどころおかしい。
 おかしいとどうなるかといえば、文章を読むリズムが狂うんです。
 小説や物語は、とにもかくにも文章が命です。文章だけが頼みの綱なんです。文字通り綱なんですよね。
 読者はその綱の上を歩くようにして、直線的に文章を読んでいきます。最後の行読んで3行目読んで12行目読んで最初の行を読むというアクロバティックなことは、通常しません・させません。1行目の1文字目から順番に読まれることを想定している芸術、それが散文なのです。そのように読んで理解できることが重要なわけです。
 だから散文は綱のようで、そのところどころに変なものがあると、読む側が綱を持ちそこねてしまう。
 それがフックとか伏線とか(どちらも似ていますが、ちょっと違うものです)などの仕掛けであれば、作者がわざとやったものですが、文末表現はそういう仕掛けをするには難しい場所です。しかし、文末は必ず1文ごとにやってきて、変であってはならない。
 ここに難しさがあり、だから質問されるのです。

文末表現は、いわば「演出行為」です。
「た」「た」「た」と過去形(らしき形)ばかりが続くのは味気ないから、現在形(らしき形)にしたり、体言止めにしたり、形容詞で終わったりするというようなことをするのですね。そういう演出をほどこすわけです。
 そこにその作者のルールみたいなものが現れるのですが、これは言い換えれば、その作者独自の訛り・方言のルールがあるとも言えます。それが変だと読者がつまづくし、上手だと気づかれずに読み進めることができます。
 さっき、こう書きました。

いろいろな習い事、どれも最初は簡単な所作から入りますよね。基本の形みたいなのがあったり、そもそも立ち振舞いや姿勢だとか、道具の持ち方とか視線の置き方とか。
 文章も同じで、そういうのがあります。

文末表現の簡単な所作、基本の形、つまり基礎的な演出は「た」で終わらせる。
 こうしておけば、味気ないものの(ダサく見えるかもしれないものの)、無難な言葉遣いになります。
 むやみやたらに現在形らしき形や、形容詞や、体言止めが入って変な印象を与えるよりは、「た」で終わってたほうが無難なのです。すくなくとも読者は文章の質でひっかかることなく、ストーリーはきちんと進みます。
 前回の記事でも、「わたしが自分の教室では、上手じゃない人にはとりあえず全部『た』で書けと教えます」と書きましたが、それはこれが無難だからです。
 文末表現に変な癖がある人は、もし「た」じゃないものを使いたいのだとしたら、推敲のときに入れ替えるかどうかを検討するべきです。草稿・初稿時はとにかく「た」で貫き通すほうがいいですね(あくまでも、初心者が、ですよ)。

(ちなみのこの文章全体は、現在形らしき形が多いですね。「た」が少ない。これは「語りかける」という演出なので、同時性をだすためにそうなってます。これ、後のヒントです)。

では、なぜ文末表現の基礎は「た」なのか。

文末の「た」は過去形ではない

小説において地の文とは、作者が読者に状況を説明しているところといえます。ここでは描写も説明のひとつとして考えます。作者が読者に状況を伝えようとしていることに変わりはないからです。

作者はその書いていることが「今起きていることなのか」それとも「過去のことなのか」を説明しているのではない。つまり「た」は過去形ばかりではないということに、一連の動画を見ていて気づきました。

たとえば、登場人物の前に「バスがやってき」と書いたとき、それは過去のことだろうか。厳密にいえば一瞬過去のことと言えますが、通常それは「現時点」「現在」のことをさします。
 また「彼は友達との約束を思い出し」とあるときも、過去に思い出したのではなく、現在思い出したのだと言えます。
 また「明日天気がよかっらお出かけする」のときの「た」は、明日のことですから当然過去のことではない。

こうして、「た」が過去形ばかりではないということが一部わかると思います(ほかにも、セリフで「どいどい」と人を押しのけるときの「た」は違いますね。これらの例はすべて上記の動画に出てくるものです)。

では「た」は、すくなくとも小説の地の文において何の機能を果たしているのかといえば、ここまでで出た言葉で一番近いものは「一瞬過去」なのです。ですが「過去形」とは言えない。

地の文のおいて、その状況が確定したり、起こったことが確認されたときに使われるのが「た」だと考えるとしっくりきます。
 作者が読者に対して状況を伝えるということは、すなわち報告であると言い換えられますが、現状起こったことを確認として伝えている。だから「た」を使う。
 こう考えることで、小説の地の文の文末表現は、基本「た」を使えばいいということになります。

そこで、では他の表現はどうなのかと、改めて考えることができます。
 現在形や未来系は、強調のための用法。つまり演出であるということもこれではっきりします。
 小説において、文末表現が苦手な人はとりあえず、どんなに味気なくても「た」を使う。勘で入れていいのは上手な人。上手になったら適度に入れていい。そうでない場合は、初稿時ではなく、手直しのときに変える。
 それがいいのではないかと思います。

動画では、このほかの「た」についてかなり詳しく(しかし初学後期レベルで)出てきます。興味のある向きは、ぜひご覧いただければと思います。

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