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僕の中学の話(長め)

略歴 でも話した通り、僕の中学の顧問の先生はカットマンの指導ができない人だった。全然勝てずに死ぬほど苦しんだ記憶があるので今回はその指導方法と私の中学でのプレーについて書いていきたい。

一年生

私は球技の才能は微妙だったが、陸上競技に関してはそれなりに高い身体能力を有していることに中学一年の段階で気が付いた。

入学して数か月後のマラソン大会で全校生徒700人近くいる中で17番を叩き出したことにより顧問が私に目を付けた。

「Kたくん。カットマンに興味はない?」

顧問の先生はこの中学で10年以上卓球部の顧問を務めていた。実際、基礎技術に抜けはなく、指導にも熱を入れ取り組んでいる人だった。

おそらく先生はいろんなスタイルのプレーヤーを育てて校内外に通用するようなチームにしたかったのだろう。

現在の私なら、カットマンという難しくて器用な戦術は私には向いてない(私はかなりおおざっぱで、卓球のセンスも低いから)といって断るだろうが、当時の私はまだ幼い。

「カットマンになれば、希少価値あるしぜってえレギュラーとれるじゃん!」

という謎理論を脳内で構築した私は二つ返事でOKをしてしまう。

「よし!」と先生は言うと、体育館の裏からテレビとVHSを持ってきて、私に見せた。渋谷浩選手の技術紹介動画だった。

その動画を見終わったらすぐに台に入り、先生に多球練習をしてもらった。

顧問「とりあえず、ツッツキを大きく振ってみよう」

そういわれたので、大きくツッツキしてみた。当然ロビングまがいのボールが出たが、面を上に向けているのでなんとか台に収まるボールもいくつかあった。

そもそも、回転をかけるという感覚をつかむ前だったのでそりゃ難しい。

しかも、当時私が使っていたラケットは「ユニバーサルリボン」というラバー張りラケットである。フラットに打球するのがやっとで、回転を自らかける技術などほとんどできないのだ。

そんな感じで私は1年の冬くらいまでユニバーサルリボンを使って「ツッツキマンもどき」としてプレーした。

二年生

ようやく通常のラバーを使うようになったのは2年生になってから。

ディフェンスⅡ タキネスチョップ フェイント無印

という超オーソドックス構築を顧問に選んでもらった。

しかし私に対する指導はフンワリしていた。

「我慢が大切」「粒高のツッツキを頑張って」

などなど。とりあえず試合になったらとにかく頑張って返すことだけ考えました。

この辺に来ると私に対する指導は少なくなったが、自分でいろいろ試した結果として粒高でいろいろできるようになった。

中学生の出会う粒高はペン粒のブロックがメインなので、どうしても守備的なイメージを抱く部員しかいなかったが、その中で私は「スピン反転ができるなら、ツッツキに対して上に振ったらドライブできるんじゃね?」と考えて粒高でのトップスピン系技術を使うようになった。

中学卓球はとにかくツッツキが多かったので、部内ではこの作戦が猛威を振るったが、上回転を上回転で打つのが得意な人が多いことが分かって封印された。

(私の地区の中学卓球は、とにかくラリーを続けることを重視しているため、練習はドライブvsドライブやツッツキvsツッツキ のように、同じ回転で返す練習をしている人が多い。つまり、ツッツキをドライブするのがみんなニガテなので、相手が対応しやすい上回転を提供するのは得策ではないと判断した。)

ほかにも、毎日ツッツキを練習したら粒高でちゃんとツッツキが切れるようになったり(これは今でも生きている技術)反転してフォアに来たループを処理するといった技術を身に着けていった。

だが、それでも勝てず、部内ランキングも下から数えるほうが早い状態に陥って本当に部活をやめようかと思ったのも二年生だ。

私より半年以上遅れてカットマンになったN君が部内ランキングで3位になったのも私の心を折る要因の一つになった。

N君はきちんとラバーとラケットを別別に購入しており、攻撃型として1年間プレーしてきた。顧問の先生は攻撃型の指導はちゃんとできるので、N君はじめ攻撃型の指導は充実しているように見えた。N君のようにちゃんとしたラバーでちゃんと基礎技術を磨いてから私もカットマンになれたら・・・

そう思うとやりきれない思いでいっぱいになった。

それでも続けたのはもはや意地という他ない。だって悔しいから。

三年生

強豪校を除き、ほとんどの中学生にとって3年に進級してから最後の大会(中体連)を迎えるまでの時間は短い。夏前に予選が始まり、勝ち抜けなければ7月にはもう引退している。

私はまだ部内で勝てずにいた。

漫画とかならこの辺で何かすごいことになるのだが、現実はそんなことはなく何も変わらずに最後の大会前日になった。

顧問の先生は部員全員を呼び出してこう言った。

「次の中体連のレギュラーを発表します。選ぶにあたってもちろんランキングを基準にしていますが、普段の練習風景や行動、素行も含めて選んでいます。」

中学卓球の団体戦は4シングルス1ダブルスで行い、チームは7人から10人で構成されるのが一般的だ。

私の名前は最後に呼ばれた。


中体連当日。

地区予選なのでランキング決定も含まれている。その地区の全部の中学と総当たりになった。自分の中学も含め、参加校は5校であった。

私はライバル校との試合で選出された。

私は何を隠そう、公式戦での勝利数が非常に少ない。

1回戦を突破した経験がほとんどないのだ。

正直、試合メンバーとして選出されたときは震えが止まらなかった。

しかも、選出されたのは5番手である。わたしの勝敗が、チームの勝敗と結びつく試合である。

私は何とか私の番に来る前に勝ってほしいと願い、応援にも熱が入った。

しかし、さすがに強豪だけあって試合は拮抗、5番手である私に順番が回ってきたのだ。

相手は、その学校で2番目くらいに強い選手だった。以前にうちのエースが対戦して負けた相手だ。

そんな相手に勝てるわけがない。しかし、私がやらなくてはいけない。

人生で初めて「覚悟」をした瞬間

私が試合を、学校を背負っている。

私以外に、この状況をなんとかできる人間はいない。

人生で初めて「覚悟」をした。

試合前、先生は私にこう言った。

「Kたくんの普段の練習を見ていたから、私は5番手に選出したんです。自信をもって試合をしてきてください。」

私はまっすぐコートに向かい、試合を開始した。

そこから先、試合に関する記憶は断片的にしか残っていない。

だが、なぜか相手がポロポロとミスを繰り返し、いつの間にか私がゲームをとっていたことは覚えている。

相手も緊張していたのだ。

後から知ったのだが、カットマンのような相手にリスクを負わせる戦術ができるプレーヤーをプレッシャーのかかる5番手に置くのはセオリーの一つらしい。顧問の先生のオーダーは間違っていなかった。

気が付いたら最終ゲームの10-10にまでもつれ込んでいた


相手のサービスをなんとか返すも、三球目を撃ち込まれた。

10-11

私のサービスはバック深くに出した。

相手はツッツキを選択するも返球は大きく上に飛び、私のバック前に緩やかにバウンドした。

つい、私はそれをバックハンドで攻撃した。

残念ながら、そのボールがネットにかかり、私は敗北した。


結果、私の中学は2位(ライバル校)と一勝差で3位となり県大会出場権を逃したのであった。


卓球ノートのコメント

卓球ノートをご存じだろうか。

文字通り、卓球のことについてまとめるノートだが、私の中学では試合のたびに結果や反省点などをまとめて記し、顧問に提出することになっていた。

中体連を終え、個人戦でも県大会に行けなかった私は月曜日に最後の卓球ノートを提出した。内容は「勝てなくてすいません。最後まで弱かったです。」みたいなことをずっと書き連ねたような感じだったと思う。

2日後、卓球ノートが返却された。走り書きのような赤ボールペンで顧問からのコメントが記されていた。

「Kたくんは本当にまじめに練習を取り組んでいて、1年のころと比較すると本当にうまくなったと思います。でも、試合になると頭が真っ白になってしまって、本当の実力を出せずにいました。

最後の試合は格上の○○選手にあそこまで競った試合ができていました。あの試合はKたくんの集大成だったと思います。

試合に負けたのはあなたの責任ではありません。それよりも前の選手たちが勝てなかったことにも責任があります。一人で背負い込む必要はありません。

これで中学の部活は最後となりますが、今後も卓球を続けるのであればまた大会などで会うこともあると思います。その時はもっとうまくなった姿をい見せてください。」


私は休み時間の廊下でノートを読みながら、人目をはばからず号泣していました。

そして、私は決意しました。

「もう絶対に卓球で後悔しない。もっと強くなりたい。」

ちょうど当時、私の県で強豪私立と対等に戦える実力を持つメンバーがそろった公立高校があるという情報が入りました。

同級生の兄がそこに通っており、前年はインハイ選手を輩出したとのこと。

「その高校に行って、上級者のプレーを学びたい。」

かくして、私は3年の夏、be動詞すらわからない状態から、卓球のためだけに偏差値60の高校を目指すことになったのであった。。。


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