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【読書感想】家政学の思想(現代思想2022.2)

暮らしから考える人新世
コロナ禍における暮らしを考えるにあたり、「家政」について改めて注目が集まっている。人新世時代において、われわれの生活はどのように変容しているのか。エコフェミニズムの知見や、ケア論などの観点も取り入れながら、家政学を基軸に、その思想と実践をつなぐ。

下記HPより

もともとバチェラー4を観て、家族訪問のepiで秋倉父が自身の親の介護体験を踏まえて「ケアリングがぼくの幸せ」という発言をしたことが視聴者たちに絶賛されていたところから違和感が始まりました。私はあのシーンに息苦しいほどの葛藤が感じられて切なかったです。あれは「嘘」とまでは言わないけれど、人生の意味づけのためのレトリックであると感じました。
秋倉父のレトリックは(もちろん映像切り取りに過ぎないという留保はつけつつ)介護を「選択し」「うまく遂行し」「幸福を勝ち取っている」という、男性社会・ビジネス空間の価値を内包しすぎており、家族の事柄に責任を負う家父長制が再生されているとまで感じます。
しかし、視聴者たちはそうして提示された配慮と犠牲のアイコンに「推し変」するよう促され、実際にそのように振る舞っていました。つまりバチェラーという番組への典型的批判の一つである「女→男へのケアリングの搾取が行われている」という描写を逸らすために、配信者と視聴者が共犯関係に立って「男によるケアリング」をポリコレに適うものであると価値づけて消費しているのであって、非常にダブスタだなあと。
そこで行われているのは、ただケアの主体が男へとズレているだけであって、ケアが本来的に持っている支配構造を問い直すものでは決してないにもかかわらず、あたかも問題が解決したかのような解釈が横断的となっていることに大きな違和感を感じました。
『男が介護する 家族のケアの実態と支援の取り組み』津止正敏において、これからのケアは”ながら”になるという指摘がされています。ケア主体がケアのみに没入・傾倒することを求められる時代は終わるべきであり、働きながら、通いながらのケアというモデルが中心となるべきであると。つまり稼得労働側が”ながら”モデルを可能とする程度にまでスロウダウンし、ケアが本当の意味で「選択」できるようになったときに初めて、私たちは秋倉父のレトリックを頼もしく好ましいものとして感得(もう”消費”と言ってもよい)できるのだろうと思っています。

そうした問題意識のもとで、スロウダウンの推進剤としての「人新世」概念とケア労働の実態を接続させる特集として楽しみにしておりました。
討議1、2とも、コロナ禍による生活や生命維持の条件の外部化が露わになったこと、その対応としてスロウダウンを企図していこうというテーマで論じられており良かったです。
ただ、では具体的に私たちはケアとどのように向き合えば良いか、という”次の話”にはなかなか移ろっていかなかった印象でした。人新世における自然と人間との適切な距離感の模索の中で、ケアのあり方も定位される、と理解しておけばひとまずは良いでしょうか。

【家政学とはなにか】

①家庭という時空 / 川上雅子
HOMEとHOUSEの違いから説き起こし、ホームという言葉から連想されるtipsでしばらく話題が移ろう。ステイホームはステイハウスではなかった。犬にはハウス!というが、人間はホームである。ホームには複数人の共生が示唆されるが、単身世帯であってもステイホームである。単身者の暮らしを表す日本語はない。(「プライベート」あたりがそれに該当するかな。)ホームレスはハウスレスではない。身近な人、他者や社会との繋がり、そして自己のアイデンティティの喪失こそがホームレスの本質である。等々。
家庭の定義にやすらぎ、あたたかさ、くつろぎなどの形容詞は排されるが、家庭の機能には「精神の安定」が挙げられることが多い。
その後ハイデッガーやヤスパースを引用する環境としての家庭に論が進む。熟慮や大きな決断をせずに繰り返される行動、営みが展開する場として捉えられる。
次の節は家庭を「起点」とし「起点が不安定な限りでは人間はその他の世界にも信頼を拡げることはできない」とする。「環境世界としての家庭は、一個人が他者と暮らすことを決意することから始まる」とも。婚姻届を出す局面なら分かるが、親に抑圧された子どもには苛烈な定義だなぁ。
コロナによって、外部空間からのシェルターとしての家庭、という定義は崩れつつあり、内部空間へと浸潤してきている。バーチャルな世界への逃避もある。それでも人間の自由はホームにある。ステイホームとは自由を確保するための啓発言語でもあった。

②新型コロナ・パンデミックと家政学 / 倉元綾子
家庭の定義の次は家政学の定義。ドライリンガーの話題書(未邦訳)に依拠して、消費者教育、栄養教育、児童保護、産業安全、公衆衛生、職業教育、女性の権利、空気・食物・水の清浄化、科学と経営の原則の家庭への適用という家政学の領域を確立したリチャーズと、家政学を通じた人種問題の解決を夢見たワシントンが紹介される。
その効用は、家事の経済的価値と、それに要する肉体的労力の測定。
一方で蹉跌は、人種差別や優生思想と親和し、また女性を家庭に押し込めるものでもあった。
タイトルはコロナだが、コロナ・パンデミックにより、「人々はスーパーマーケットから小麦粉を、大型店からミシンを奪うように買った」としてホームメイドへの回帰が見られたという分析は少なめ。
ラストの家政学部の名称変更は流れは分かったが、紙幅を割くほどの話題なのか不明。

③家庭における「潔癖」と「抵抗」――高度経済成長期の「家庭小説」をめぐって / 野崎有以 
高度成長期は「三否定」からの揺り戻しによる性別役割分業と画一化の時代だった。
今和次郎による弱者を含めた家政学による不衛生な居住環境や不合理な慣習からの解放は一定の成果を得たが、「望ましい家庭」への画一化から漏れた性産業などが排除された。そこに家庭小説(明治期の家庭で読む小説ではなく、家庭について書いた小説)の一員として吉行淳之介が「抵抗」する。けむりのように実態のない民主主義というドグマに従うことで病識のない健康が普及して行くのは、現代における清潔さへの強要なども連想する。
抱擁家族は江藤淳の引用なども読んだが、父性や母性といった観点だけでなく、家政学から家庭小説を捉えるのが面白い。ただし、それでは吉行淳之介の「人間の虚偽と精神主義、道徳主義の仮面を剥ぎ取ろうと」する文学的な実践が至ったときに、どのような理想が見えてくるかについては、オープンエンドで終わっている。

【討議1】

④ケアの家政学 / 阿古真理+藤原辰史
それぞれ生活史研究家と農業史・食の思想史研究家だとか。阿古氏の著作が取り扱ったテーマである、料理研究家の哲学の土壌や、料理に対する「ねばならない」の問題などに引きつけて、藤原氏が多くの書物を引用しながら文脈を解説するような形式で推移していく。
コロナ禍で外食ができなくなり、みんなが「家にいる」状態になったとき、「家事がそれまでの何倍もの負担になって担い手にかかってきた。」「その担い手はやはり主に女性」だったというところから。家事を完璧にこなすことへの強迫観念や、分担していない方はたやすく「完璧にこなしている」と思いがちだが、実はスキマを他人に埋めて貰っている、など。
「暮らしの実態は、受験科目を身につけてお金を稼ぐ仕事と、自宅での家事の両輪で回っている」にもかかわらず、家庭科の授業コマ数が少ないことを問題視。5倍にすべきだ、という提言は自己領域拡大のためのポジショントークにも思えるが、指摘には納得。買い物リストを作るのが一番重労働だというのはよく話題になるので、自分も冷蔵庫の残弾をこまめに確認し、献立の形成を主導しているつもりではある。ただ予め緻密に構築すると、スーパーでの導線が画一的になってしまうし、旬や時価の見極めも省いてしまうことになる。まだまだ修行です。
次の節、家事の歴史は面白かった。ある料理研究家の厳しい料理への向き合い方の土壌として、「家事に手を抜かないなら、働きに出ても良い」という許可を夫に得て、仕事に行かせてもらっていた時代の女性は、「夫に家事を手伝わせない」ことをプライドとしていたことも少なからずあったと。フェミニズムが盛んになって「料理がしんどい」の訴えが大きくなったり、おひとりさまレシピを開発する料理家にニーズが生まれたりと、時代の変遷を映す鏡としての料理、という視点。
ここからケアが暮らしの様々な側面を覆っている様子へと論が進んでいく。ポイントは「こうなってほしいという型の中で救われている人に満足する支援は嫌だ」に代表される、型に嵌めるケアは取引になってしまう、という陥穽である。『逃げ恥』の契約関係は、サービスの取引関係だから成立するのであって、家族間であれば心理的距離が生じてしまうし、契約外のことはやらなくなってしまう。しかし家事は常にプラスアルファが発生する領域であり、プラスアルファこそが人間を人間たらしめている基盤、とされており、ここでも「型に嵌まらない」ケアの特質が描写されている。
最後に、ケアの特徴が「原状復帰」にあり、だからこそ引き受け手たちがしんどいのであるし、サービスの受益者からすると「環境」のように感じとられてしまうという問題が指摘されている。個人的にも特に掃除については自分があんまり気にしないので、だんだんと相手の労働が当たり前になってくるという感覚はよく分かる。
テクノロジーの発達によって人間の性質が潔癖化しているという話題にも少しだけ触れられるが、特に子どもが産まれたあとは、子どもの身体への負担を鑑みて際限なく清潔さを求める母親、という類型が容易に頭に浮かぶ。この対談では育児の話はあまり触れられていないが、貢献度分配や感謝といった心の持ちようはいくらでも応用が効くと感じる。

【家庭科教育の現在】

⑤家政学における住居学、そして住教育の意義 / 宮﨑陽子
日本の住宅政策は過度に経済社会化されており、基本的人権の保障要請水準に達していない点を国際条約の枠組みから批判し、具体的にa占有の法的保障、bサービスや設備等の利用可能性、c家計適合性、d居住可能性、eアクセス・利用可能性、f立地条件、g文化的適合性の7項目を解説するところまでは興味深く読めたのだが、そこからSDGsの文脈や家庭科教育の提言が始まって途端に論が抽象的になる。「空間軸と時間軸」「生活者の居住改善能力と国や社会による居住政策の充実」「現状の理解・是認に留まらない」などのキーワードは示されるが、着地点も曖昧で残念。

⑥家庭科教育にどのように関わってきたか / 村山純一
大阪府立高校家庭科教諭の筆者の実践。男性家庭科教諭が居ることで家庭科はジェンダーレスな科目であると説得力が出るとのこと。初任が工業高校、次が中堅どころの保育科を持った高校、現在は進学校(茨木高校)というキャリアの中で、それぞれ身体を作るための食育実習、地域に出ての保育実習、そして今は様々なワークショップを企画していると。「児童文化財」というワード(絵本、折り紙など)が特に断りなく登場するが、家庭科教育におけるそうしたリソースの手持ちが体系的に分かると面白そう。全体的には理想を掲げ、そこに向かう経路を合理的に啓発しようとする良い先生だなという印象でした。

【ケアの倫理】

⑦有償家事労働の位相から「家政」を考える / 平野恵子
「家政」を担う人々への着眼点はジェンダーだけではない。エスニシティもまた重要だ。との書き出しで、インドネシアから世界各国への移住家事労働者の現状を論じたもので面白かった。
これまで多くの国・地域で労働法の適用外として労働者性を認めてこられなかった家事労働者が、2011年のILO条約によって、「連続二四時間の週休、慣行でおこなわれることの多い現物払いの制限、雇用条件に関する情報の明治、結社の自由や団体交渉権」といった労働基本権がようやく認められるに至ったと。これまでこうした権利が認められてこなかったのは改めて考えると凄いことだと思う。
「雇用主の「家族」の一員として振る舞うことを求められる使用人」と聞くと、シェイクスピア『テンペスト』を想起する。キャリバン少年に言語教育を施すことで、彼の抵抗を誘う物語は、しかしインドネシアの移住家事労働者には当たらないようだ。彼ら彼女らは「疑似家族」となるために感情(マインドセット)を含めたスキル訓練を受け、「商品」に作り替えられることを自ら容認しつつ、出稼ぎの後で「起業」することをゴールと見定める。このあたりは婚活市場で自らを「商品」化せざるを得ない男性とも似ているようでまた違うマインドセットだと感じた。
その後に続くスキルを付けることで「レストランで働く」地位を手に入れ、家事労働からexitするという「家事労働のスティグマ化」についても、日本でも”お前、無職のカジテツか”が蔑視のワードとなることに引きつけてよく理解できた。
しかしこうした技能化は、P53の討議で論じられていたような「常にプラスアルファやグレーゾーンをもつ」家事労働と親和するのだろうか。測定不能なモノを測定しようとする資本主義・功利主義のロジックが、まさに「人権保護の名の下に」推し進められているようにも感じる。
最後に、最終節で特に断りなく「受け入れ国中間層以上の雇用主女性、移住家事労働者の女性、そして送り出し国際世帯の子どものケアを担う女性という三層の女性たち」と階層構造が描写されるが、冒頭の「ジェンダーと同時にエスニシティ」という表明からエスニシティに特化した記述が続いたところに唐突にジェンダーが明記されて驚いたので、送り出し国における男女差についてもう少し補足があれば良いとも思った。けどたぶん紙幅が足りない。

⑧日本の食マネジメントは倫理的消費に向かうか?――生協をフィールドとした調査研究をベースに / 近本聡子
エッセイみたいな文章だな。冒頭で「本号では「人新世」がキーワードのひとつ」と言われ、そういやそうだったな、ここまでの論考で一切感じなかったなと気付かされる。
それでエシカル消費周りは身近にも実践者がいるので、なるほどこういう観点で行動しているのね、と面白いのだが「2019年にはスーパーやコンビニのビニール袋を有料化することにも成功した」とあって、これだけ毀誉褒貶のある政策を力強く肯定するポジショントークが眩しい。
読んでいくとところどころに「産業政策に目を向けないと」「歴史は繰り返す」「ささやか規模だなあ」「30年以上言ってきたのであるが」など俺(私)すげーマウンティングが顔を出して端的ウザいし、「現在のウェブ漫画で人気のテーマは、女性たちのケア労働も仕事も知らない・見ない男性がついに妻に逃げられるなど」ってそれフィルターバブルされてない?とか、「家制度を壊した我々にとって」の「我々」って誰?社会全般なのか、生協のことなのか、あなたは誰をレペゼンしているのだ…とげんなりしてくる。
とはいえエッセイとして読めばそこそこいいことが書いてあって、「「新自由主義」反対などといっている団体は多いが、あなたはおいしいものを食べていないの?」とか「室内冷凍庫の増設が増えている…夫や子どもに食べるものを指示できるようにするためには、各人の技量に応じた設備が必要である」(個人的にはどちらかというと消費期限を長くするために冷凍庫が欲しいが)とか「「目立たなく生活」することは自分から何か学習しようとしない階層にとって有効だそうで、「はむかうとサンクション」がくるのだという」(その階層が意味するものも判然としないが、痛烈ではある)あたりはクスッとできた。
筆者は定性調査をフィールドにしてきたらしく、最後に生協組合員のパートさんたちが家父長制を自然と内面化している事例が挙げられて、地方マイヤンの意識にあまり触れたことがなかったので興味深く、そこをもっと掘り下げて欲しかったとは思った。

⑨奴隷・女・移民――家事/ケアワークをめぐる断章 / 佐藤靜
倫理学専門の著者が「アリストテレスの奴隷論と第二次フェミニズムの潮流から家政の始原とケアの分配を論じる」とあるが、まず「私たちは傷つき傷付けられやすい脆弱な肉体で生きている」→「ゆえに人は生きるために〈ケア〉を必要とする」って繋がっているようで繋がっていなくないか?と気になる。そしてアリストテレスの奴隷論と第二次フェミニズムのともに紋切り型を論じているだけで退屈だった。
「つらい仕事」であるケア労働は「「負の財」として捉え、分配されなければならない…社会的に過酷な労働をふさわしい形で担うものを選び出せるような民族・性・カースト・個人は存在しない」という意識で第二次フェミニズムは女性進出を促してきたが、その結果「家庭内でのケアの分担は起こらず、より貧しい女たちの手によって家庭内のケアが担われるようになった…これが現代のグローバル資本主義によって強化された家父長制である。」というところが中核かと思うが、そのあたりは既に⑦平野論考である程度論じられているので、総論をなぞっているだけという印象が拭えなかった。

【歴史のなかの家政】

⑩ヒーブ(HEIB)の日本的展開をめぐって――消費・ジェンダー・企業社会 / 満薗勇
ヒーブとはHome Economists in Businessの略で、アメリカにおける、企業内で働く家政学士を意味するものだったが、日本では「企業の消費者関連部門で働く女性」と定義され、家政学会との関係を断ち、女性に限定するものとなった。
高度成長期における消費者のインフレ体験や技術革新に感性や生活を応じさせていく負担の中で、日本消費者協会は「かしこい消費者」像を打ち出し、性別役割分業を推し進めたとされる。このあたりは③野崎論考とも響き合う内容でよく理解できた。
そこから日本版ヒーブが、「女性に新たな就業機会を生むことにつながった」「女性に対して専門職にふさわしい処遇を与えることにつながった」と、第二次フェミニズム的な女性キャリアパスの確立面を評価するのだが、一方でそこで紹介される「かしこい消費者」「生活者」としての視点をキャリアに積極的活用していき、やがて各企業の女性取締役の嚆矢となっていくヒーブメンバーたちの『リーンイン』的な価値観や言説に対する、現在の若い世代のげんなり感(第四次フェミニズム的な)は特に反省されていない。
この点、ヒーブが企業の内部に温存されることで「消費者と良好なコミュニケーションをとりながらその販路を広めようとする限りではマーケティングの範疇に属する役割を担ったが、たとえば安心・安全の基準をどう設定するかということは、企業にとってコスト負担の多寡に直結する問題であったから、…たえず難しい立場」にあり、「アメリカのHEIBが家政学会にその足場を設けたのは、家政学の学知とアカデミアの共同性に、企業の論理を相対化するための拠り所を求めたから」とかなり精確に問題点を指摘しているにもかかわらず、その後の踏み込みが浅い。
日本版ヒーブには「家政学会に入ってもメリットがない」という「本音」があったという証言にまで至っているのなら、その理由まで解き明かすべきだし、それこそがこの論考の中核になり得ると思うのだが中途半端。これは当時のメンバーたちが出世してお偉いさんになってしまったので、インタビューが取りにくいのだろうな、という同情はするものの。

⑪居住生活の境域と縁――ドメスティック・ディスタンスⅡ / 須崎文代
人新世というテーマに寄せて、「人間生活(社会)と自然環境に存在する≪境域≫と、その間を構成する≪縁≫を<開く(つなげる)/閉じる(まもる)>といった単純な、ちいさな操作の連関から起こり得る可能性」「近代合理主義の下で均質化されたさまざまなスケールの生産ルールを、複雑性とともに成立する全体として捉え直す姿勢」を呼び起こすために、「家政学の黎明期における思想のいくつかを取り上げる」としている論考。なのだが、「いくつかを取り上げる」例示なので、個々の節の繋がりが分かりにくくて少し読みにくかった。ここでは建築史を読むモノだと思っていたので、煙に巻かれた印象。
第一節はシステムキッチンの発明と、それによる人間身体への機械化の機構とリズムの組み込み、食事の均質化がもたらされたという両面性、第二節は明治日本の黎明期の家政学受容において、ロンドンで流行っていた衛生思想が強いこと。「家庭」の集合=「国家」という社会全体への敷衍がおこなわれたこと。第三節はセツルメントハウスの理想は相互扶助であったが、やがて公共サービスの一部と捉えられるようになったこと。第四節は「ユーセニクス(優境学)」という思想の紹介で、『沈黙の春』の遥か以前に環境倫理を全面的に扱った思想が成立していたこと。第五節は現代の住宅がかつてのような「人間の生命過程において不可避な出産、育児、労働、生産、工作、看病、養老、介護、看取などの営みを成立させる器」だったものから、「家族の寝食とメディアを中心とした余暇というごく限定的な目的を果たすためのものになった」ことを示す。
そして、家庭の外にサービスを外部化して≪ドメスティック≫を極小化してきた資本主義の潮流から、「家政学や居住環境改善に携わる創始者たち」が「家庭と家庭、家庭と社会、家庭と環境という多様な重なりの集合として≪ドメスティック≫を捉えてきた」という原点に立ち返り、人新世のいまや≪ドメスティック≫は地球全体に拡張されなければならないと締める。

⑫松田道雄の保育思想 / 和田悠
家庭保育と集団保育の対比がテーマで、母親の育児不安や育児書による解消の限界などは自分事として興味深く読めた。「家庭生活上の基礎習慣を子どもに覚えさせようとする「しつけ」に忙殺され、しかもそれを幼児教育と錯覚してしまっている。」は痛快ではあるが、しかし馴染めぬ者を「発達障害」と呼んで阻害する社会にあって、そこに馴致するための訓練を切実に行うことは責められないとも思う。厚生省との家庭づくり論争は明快だった。全体的に明快でスッと読める文章なのだが、現代との接続点が僅かにしか触れられていないので、あまり印象には残らないな。

⑬近代日本における栄養思想の普及のプロセス――佐伯矩の食事実践介入と女性たちの反発 / 巽美奈子
読みやすくて面白かった。佐伯矩(さいきただす)が展開した1920年代の栄養改善活動の中核としての「経済栄養献立」によって「健康のために食事をコントロールするという規範的な思想」としての<栄養>が確立されたのであれば、受け手の主婦たちはどのように受容したのか、というプロセスを探っていくのだが、経済性と栄養価の両立を目指した「献立」に対する反応として出てくる傍証は、「自由な消費活動を窮屈なものへと変え、節約のために調理の担い手の負担を増す」とか「時間と手がかかる、人手が足りない、物が半端になる云々、要するに日本調理法の従来観念から比べて万事が面倒」とか「計量後に余る食材を使い回すことができず、・・・非常に手間がかかる上に不経済」と散々な評価を受けたものばかり。
しかし、関東大震災の義援金を財源とした児童給食の企画を任されたことによって大逆転が生じる。高等教育を受けた女子たちを尖兵として各学校に派遣し、経済栄養法による給食を実施する。そうすると、給食実施後の児童は栄養状態が良くなり、欠食児童の身体の状態を良好にするエビデンスが得られることでついに公教育のフィールドに普及をはじめる。佐伯はついに給食実施のエキスパートの本格的な要請のために学校を設立し、修了生に「栄養士」という称号を与えた。「現在の栄養士という専門職はこうして誕生した。」\ドドンッ/ キメもバッチリ。
最後に、主婦たちは「栄養学的な知識に無知なのではなく、家庭における食事作りの担い手として、食べ手である家族を満足させることに気を配り、そのために調理工程やその「できばえ」(外観)に注力した」という思想が、佐伯の「できばえ」よりも栄養の実を取るべきだという思想とコンフリクトしている構図を説明。これはインスタ映え写真だけ撮って食品廃棄問題に繋がっていきそうな相剋でありそうだ。とはいえ民間主婦たちへの<栄養>思想の浸透はまだまだ研究課題だそうだ。楽しみにお待ちしています。

【討議2】

⑭エコノミーとエコロジーの思想史――経済学が不可視化したものを掘りおこす / 重田園江+桑田学
人新世の激変は「将来世代の課題だ」と悠長なことを言っていられないくらい加速しているとの問題意識で、「経済学はいつから自然を捨象するようになったのか」という論点を思想史家が対談している。
『エネルギーと産業革命--連続性・偶然・変化』という書物が参照され、「有機経済は太陽エネルギーのフローにすべて依存する」ので、「土地の収穫逓減の法則(ある土地からの生産量は、資本・労働の投入量の増大に応じてある点までは増加するが、その点を超えると減少するという法則)から逃れることができない」というボトルネックを、「新たな熱源と動力源としての「石炭」が粉砕した」という史観から始まる一節が特に面白かった。
『人新世の資本論』でも技術革新による利便性の向上は、必ず外部不経済を生み出すことがこれでもかと繰り返されていたが、ここで示される「動力源をポータブルに動かすことができ、生産の空間を均質化できるようになった」という前提条件の変化が、その後の画一主義の淵源になっていると。そして「仮想水」の概念などを参照しながら、外部不経済はグローバルサウスに押し付けられていることを合わせて示す。
その後、「エネルギーの労働利用」としての工業ではなく「エネルギーの生命利用」という次元まで成長を減速させることが必要ではないか、と示唆にて終える。
ただ「この綻びが、コロナによって一気に可視化された」というのが分かりにくかった。製薬企業の暴利などが事例として挙げられているが、グローバルサウスからの収奪構造の例として適切だろうか。コロナを具にして言いたいことを言っているだけに見えたので精緻さが欲しい。
途中でハイエクのことを「歴史の一回性を認めない」と批判しているが、歴史を一回性のものではなく繰り返されるものとして教訓を引き出すのが歴史家の役割だと思うので、自分の主張に合わない論者を封殺するダブスタ姿勢にも見えてここも引っかかった。

【暮らしのなかの自然】

⑮弁当と野いちご――あるいは「ほんもの」という食の倫理 / 福永真弓
この論考を読むだけでもこの雑誌を買って良かったと思える素晴らしい論考でした。全編写経したい。
身体は環境に対して開放されており、食はその開放を調整する弁である。何に自分の身体の境界を超えさせるか、身体の声に耳を澄ませて診断しなければならない。
市場と消費が人々にとって主要な政治的アリーナであり、人々を繋ぐプラットフォームとなった今、選択の自由を賢く享受する新自由主義的倫理によって、他のすべての道徳プロジェクトが回収され、階層も整え直されている。
ほんものというフレームが再編され、複数の「べき」を含みこんだアンブレラ規範として人々に働きかける。
・・・
かくして、食は、食となる対象に価値が内在するのではなく、人々がその食をどう知覚し、理解するかに依拠しながら社会的に構築される、窓口としての役割を付与され、手垢でべたべたになっていく。
そして、「べき」を自分や他者に押し付ける道徳プロジェクトは、ホトケの居ない空っぽの厨子をありがたく拝むように、いや、道ばたの石ころを無理矢理ホトケに祭り上げるように、「自然らしさ、ほんものらしさをめぐって、歴史や既存の文脈から、理想化・象徴化・物象化されたイメージから、目の前のサイボーグたちから、複数の倫理的想像が生まれ、競っている。」正当性の奪い合いの沃野としての食である。
そして、「弁当」の自然性を幼稚園から強要される母親や、野性味のある「野いちご」を求めるシェフと、細胞農業の無垢さに安らぎを得る女性の対比などが紹介され、「学問的な問いとその背景が、日常の一コマから見て適切な問いを布置しているかどうか、研究者の感覚を確かめる」ため「不断にこうした誰かのまなざしから手触りを確かめなければ、学問は現実からすぐに離床してしまう」との切実さをもって立脚点として参照される。真摯な論考だと思います。

⑯近代都市の惣菜史――「火」を買う・借りる・共有する / 湯澤規子
「料理を誰が担当するのか」は「料理する火をどこに置くのか」であり、「料理」とは「外部のエネルギーを用いて、体に変わって咀嚼と消化を行うこと」といった出だしの問い直しは面白いのだが、後半で論じられるのは都市労働者の勃興による炊事場の集合キッチンや、仕出を業とする惣菜業者の隆盛といった情景の点描であり、だから何が言いたいの?感が強かった。
「揚げ物をすると部屋が汚れるから自分の台所では揚げ物料理は一切しない」は我々世代の割と一般的な感覚だと思うので、著者とは世代の差を感じた。

⑰湿地のエージェンシー、ぬかるみのフィクション――ディーリア・オーウェンズ『ザリガニの鳴くところ』と人新世の物語 / ハーン小路恭子
2018年出版の動物行動学者の小説を題材に、「自然を、人間による介入や採取を待ち受けるウィルダネスとしてではなく、周辺環境を構成する積極的なエージェントとして、人間と非-人間的存在をともに包摂する物質的な空間として再考しようとするパラダイムシフト」をもたらしたエコフェミニズムを分析する…のだが、そもそもエコフェミニズムがよく分からんまま読んでも値打ちがない気がして残念ではあった。ラストで唐突に「人間的なるもののぬかるみは、たとえそれが人新世において様々な破壊を地球環境にもたらしてきたものと同定可能であるにしろ」とか言われても繋がりが分からなかった。
湿地に暮らす孤児女性の生活実践と危機への対処から「いかに人間の社会関係をめぐるイデオロギーが周辺の自然環境と複雑に絡み合いながら形成されていくか」という指摘や、「自然界のダークサイドなどではなく、何としても困難を乗り越えるために編み出された方策」としての残酷な行為の描写、あるいは「自然を観察し、そこから行動の指針を学んで生きることは、人間のロールモデルを持たない少女に「自己信頼」の感覚を与えた」「しかし他方で…ホームメイキング行為を通して相互依存的なネットワークを作ることの希求もまた見て取れる」といったスポットの分析は面白かった。

⑱超身体性――ステイシー・アライモへのインタビュー / S・アライモ/J・クズネツキー(聞き手)/森田系太郎訳
雑誌自体のリード文にある「エコフェミニズム」をはっきり書いているのが最後の二つの論考だというのは構成的にどうなのかと思いつつ、さらにこの論考でも解題で「エコフェミニズムについても十分な紙幅が割かれている」とされているが、実際には表面をなぞっているだけで最後までよく分からなかった。

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