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フィクションに向かって「現実的でない」と批判する心理

アニメやドラマに対して「こんなの現実的でない」と言う人がいる。

その多くは作品への批判である。

専門的な知識からして「これは科学的におかしい」という指摘もあるが、そうではなく作品全体に対しての突っ込みに伺える。

しかし、アニメやドラマの大半はフィクションである。
つまりは作り話である。

そんな作り話に対して「現実的でない」というのは疑問である。

――― 今までモテたことのない主人公が、ある日を境に素敵な異性から好意を持たれるような内容でも良いだろう。

――― 平凡で平和主義な主人公が、何かしらの事件をきっかけに血生臭い環境に巻き込まれていく内容でも良いだろう。

――― 犬や猫などの動物が、まるで人間のように歩行して文明を築いて生活している世界観でも良いだろう。

それらはあくまで「設定」であり、物語を楽しむための前提である。

その「設定」に対して「現実的ではない」と言うならば、最初から観なければ良いだけの話である。

もしかしたら、何かしらの理由でその作品の存在自体が気に食わないということから「現実的でない」と言うのかもしれないが、それこそ最初から観なければ良いだけの話だ。

その作品に対してイライラしたり、ネット上に誹謗中傷を投稿する時間があるならば、自分が大好きな作品にだけ目を向ければいい。

そもそも、フィクションに対して「現実的でない」と言う人たちは、現代のエンタメや作品に対してばかり突っ込みを入れたがる。

しかし、昔話に対して「現実的でない」と言う人を見たことがない。

例えば、誰もが知っている昔話として「桃太郎」がある。

桃太郎の何がスゴイって、全体的にぶっ飛んだ設定なのに、誰もそれを突っ込もうとしないところだ。

この作品は、おじいさんとおばあさんが出かけたところまでは良いが、川の上流から大きな桃が流れてくる。この時点でおかしい。

しかも、おばあさんはその桃を家に持って帰るのだ。

もう、この時点で読者の脳は麻痺してしまうと思う。

だからこそ、以降に桃の中から桃太郎が出て、鬼退治に出かけて、三匹の動物を従えて、鬼を成敗する・・・という話を受け入れてしまうのだ。

おそらくだが、作品全体が現実味を帯びていない設定のため、読者も何の疑問も持たずに作品を楽しめるのだと思う。

つまり、読者に疑問をもつ余地を与えない構成になっているのだ。

逆に見れば、「現実的でない」という作品は、それを見た視聴者や読者に対して疑問を与える余地があるから突っ込まれるという話になる。

だからと言って、「現実的でない」と批判されないために作品を創作しているわけではない。

頭を空っぽにして楽しめる作品もあれば、ちょっと頭を使ったり感性を研ぎ澄ませながら触れる作品だってある。

そこに対して「現実的でない」と言うならば、頭を空っぽにする余地がないほど、その作品を通して自分自身に対してを納得できていない何かを感じているのかもしない。

実際、作品批判の大半は同族嫌悪のようなものだと思う。

自身のコンプレックスや日常への退屈さなどを感じているからこそ、それらを突くような作品を見たときに不快感を抱いているように見える。

あるいは、フィクションを見て自分が「こうなりたかった」「こうなりたい」という気持ちが湧くけれど、現実の自分はそうじゃないから「現実的でない」と批判してしまうのではないか。

ぶっ飛んだ設定の桃太郎に対して突っ込みを入れないのは、桃太郎を見ても「こうなりたい」と思わないからに他ならない。
(もちろん、桃太郎に憧れる人もいるだろうが・・・)

――― とにかく、フィクションは作り話だ。

「現実的でない」と自分が思っても、その作品を楽しんでいる人たちも多くいることを忘れてはいけない。

わざわざコメントしたり、横からそれっぽい理屈を言って批判したところで誰も耳を傾けない。

面白くない、不快だと思うならば黙っていよう。

そうして、自分が面白いと思うものに触れるのが健全だ。

それがエンタメであり、フィクションの意義ではないだろうか。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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