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福祉はどこまで支援をすれば良いか? まずは当人の”できること”を尊重することが先かも。

「福祉」とは、どこまで支援をすればいいのだろうか?

介護の仕事をしていると、そんなことを考えることがある。

私で言えば「高齢者に対してどこまで支援をするのが適切なのか?」ということだが、そもそも何をもって適切と言えるのかが微妙だ。

介護では「自立支援」という言葉がある。ザックリ言えば「できることは本人が行い、できないことは支援する」ということだ。

誰もがそうと言うわけではないが、社会が思うよりも高齢者と呼ばれる方々は割と”できること” が多い。

そのため、無闇に”できること” を介護従事者がやってしまうと、甘えや身体機能の低下から本当にできなくなってしまう。

そのため、プロフェッショナルとしての介護従事者としては、”できること”をしっかりと見極める必要がある。

また、行政も含めた社会はもっと、意外に高齢者には”できること” が多くあるということに目を向けたほうが良いと思う。



”できること” に目を向けず、高齢者は何もできないと思っていると、何でもかんでも支援が必要になってしまう。

個人的には、多少は突き放しても良いのではないかと思う。

もちろん、社会との関りや生きがい、自尊心の保持などの社会を生きる人間としての尊重は大切である。

しかし、介護は過度に「あれも必要」「これもやってあげよう」というものではない、と思うことがある。

と言うのも、色々な利用者(高齢者)に介護サービスを提供して思うことは、周囲が配慮するほどに当人が冷めていく様子が伺えるからだ。

そもそも、介護を積極的に受けたいなんていう人は少ない。高齢者本人からすれば、”できないこと” を周囲が勝手に決めつけて、知らない人が勝手にサービスをするわけだから迷惑な話と思っているかもしれない。

このニーズのミスマッチさが、いわゆる「介護拒否」「問題行動」という言葉を作る原因にもなっていると思う。

もちろん、生活環境や排泄・食事、身体保清など生きるうえで必要なことに問題があれば支援する必要はあるが、それを超えた部分となると、あとは本人の意思に任せるのが本来のあり方ではないだろうか?

それを無理やりテーマを立てて、本人が応じないと「介護拒否」「問題行動」などというフレームに当てはめるから、話がこじれてしまう。



何を言いたいのかというと、「高齢者はできなことが多いだろう」という前提のもとに介護を行うと、過剰サービスになってしまう恐れがあるという話である。

その過剰性が「介護拒否」「問題行動」を生んでいるならば、いっそのこと高齢者の配慮を少し減らしたほうが良いのかもしれない。

少し話が逸れるが、これは人材教育にも通じるところがある。

「新人だから何もできないだろう」
「見ていると危なっかしいな」
「黙っていると自分から動かない」
「一人だと不安そう」

スタッフや部下に対して、このような心配を抱いた上司や先輩が口や手を出すことがあるが、これはまるで高齢者に対する心配に似ていないか。

しかし、心配するたびに口や手を出していたら、ある程度までは教育であるものの、ある範囲を超えたら当人の成長を阻害してしまう。いつまで経っても独り立ちできなくなる。

別に高齢者が独り立ちする必要はないかもしれないが、高齢者だって介護を受けていたとしても自分のことは自分でやりたいし、成長意欲や達成欲だってある。それを「こちらでやっておきますねー」としてしまっては、いくら介護を要する方であっても落胆するのではないか。



私が言っていることは理想論かもしれない。机上の空論と言われるかもしれない。

しかし、介護を受けていない立場であっても、いや介護を受けていない立場だからこそ、他人からあーだこーだ言われたら「いいから、手を出さないでくれ!」「少し一人にしてくれないか!」と怒ることがあるだろう。

その怒りの根源はいわば「ひとりでできるもん」という主張である。

もしも介護を提供するにあたり、もしも介護拒否や問題行動をするという話が出たならば、その検討の1つとして「もしかして、自分ひとりでもできるって言いたいのかも」と考えても良いと思う。

それによって本当に”できること” が見つかるかもしれない。

もしも”できること” にリスクがあるとしても、それこそ介護従事者がそばで支えるだけの話ではないか? それが自立支援としての介護ではないか?



例えば、自分の家の庭を鎌をもって草刈りしたいという高齢者がいたら、「本人の足腰の筋力が落ちているから介護職員が草刈りをやる」と言うのではなく、尻もちをついたり立ち上がりができなくなるリスクも加味して、「ご本人が草刈りをするためにはどうすればいいか?」を考えるのだ。

これは私が担当した利用者のケースをなぞった例え話である。そして実際にご本人と一緒に鎌を持って庭の草刈りをしたところ、こちらが想定していた以上に活発に草刈りをされた。

ずっとしゃがんでいたので一時的に立てなくなったものの介助にて立ち上がり、そこからは普通に歩かれた。

”できないこと” と決めつけして介助してしまうのではなく、リスクを想定しつつも”できること”の可能性を持つことの大切さをもったケースだった。



人間にはたくさんの可能性がある。

それを信じるのは、まず自分自身である。
自分には”できること” があると信じるのだ。
そして周囲も当人の”できること” を信じることが大切だ。

しかし、自分のことも他人のことも、どうしても”できないこと” に目を向けてしまうのが人間である。

別にポジティブに”できること”を探すことを推奨するわけではない。
”できること”を信じられることがあれば、とりあえずやってみる・やらせてみるという姿勢も大切という話だ。
それは高齢者への支援だけでなく、人材教育にも言えることであり、何より自分自身の可能性を高めることにも通じる。


――― 何だか話があちこち飛んでしまったが、冒頭の「福祉」とはどこまで支援をすれば良いのか? という疑問に対しては、まずは当人の”できること” に目を向けることが先ということかもしれない。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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