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人間ってそこまで優秀じゃないし、感覚でモノを言ってしまう。だからこそ、面倒でも客観的な検証が大切

現代では様々な研究分野があり、それによって未知だったことがどんどん明らかになっている。

それによって、私たちの生活は便利になったり、健康や安全をそれなりに確保できるようになったり、スマホで情報を簡単に入手することができる。

しかし、そんな長い歴史を経て発達してきた社会においても、人間は多くの間違いを引き起こす。

それは老若男女問わず、誰もが一目置く学者であっても、多くの社会的成功を挙げてきた企業家であっても、よくよく考えれば子供でも分かる問題を前にして間違うことがある。

それはどんなに身の回りのツールが便利になっても、自然や社会、国や地域、人間関係、ライフスタイル・・・これら環境は常に変化するからだ。

また、皮肉なことに、身の回りのものが便利になるにほど、私たちを取り巻く環境はマイナスになっているという視点も挙げられる。

そして何より「人間は高度な存在だ」という誤解を抱いていることが1番の要因にあると思う。いわば傲慢ということであるが、これもまた文明が発達するほどに顕著になっているように見える。




――― しかし、人間は基本的に何も変わっていない。

どんなに文明が発達したところで、その場で見聞きしたことなんて一週間もすれば忘れてしまう。

九九の掛け算はすぐ言えるけれど、二桁の掛け算になった途端に「え~と」となってしまう。分数の割り算になると紙と鉛筆が必要だ。

世界進出の前に、すべての都道府県の場所を正確に言えない。

卵が1パック100円引きという広告を見て、お得感だけでガソリン代と時間を消費して、排ガスをまき散らしてスーパーマーケットへ車を走らせる。

羽も生えないし、水の中では息を止めなければいけない。超能力はいつになったら使えるのだろう?

・・・別に「人間とは愚かな生き物。生きる価値なんてない」なんて、少年漫画で見かけるようなことを言いたいわけではない。

文明が発達してきたことと、人間として進化しているかどうかは話が違うということだ。




また、人間は生物として肉体を変化させるのではなく、文明を発達させることで環境に適応してきた。だから、人間単体として変わっていないのは当たり前と言えば当たり前である。

だからこそ、テクノロジーや知識、思想や物事の捉え方が進化しても、人間としての仕様、つまり身体能力や記憶力、演算能力などは基本的に変わっていないという事実は、真摯に受け入れるべきだと思う。

もちろん、文明の発達とともに教育レベルは上がっている。しかし、人間はコンピュータのような性能は備わっていない。いや、正確には精緻な性能はあるけれどフル活用していない(できない)。

そう言えば、とある学者が「そもそも人間は脳内で確率を計算できない」みたいなことを言っていた。

その話を聞いて「なるほど」と妙に納得したことを覚えている。

人間は単独では確率を計算できないから、数字をもって確率の算出方法を編み出し、そして今ではデジタル化して複雑な演算もシミュレーションできるようにしたのだ。




しかし、人間は確率すら満足に計算できないのに、さもシミュレーションしたかのように分かったような発言をすることが多い。

よくあるのが「常識でしょう」「そんなの考えなくても分かる」といった、一切の理屈のない発言である。

要は、感覚でモノを考えているのである。

感覚とは、言ってしまえば「何となくそんな気がする」ということだ。

「実際に検証してみた結果・・・」というプロセスもなしに、すぐに結論を出そうとする。

私の仕事である介護現場では、この感覚で物事が決まることが非常に多い。

例えば、利用者たる高齢者の排尿量において、「いつも尿取りパッドにたっぷりしている」と言うが、この「たっぷり」は感覚である。

この「たっぷり」は、「じょっぷり」「ずっしり」といった表現もある。
しかし、結局のところ個人の感覚である。

そのような感覚によって尿取りパッドやオムツなどの排泄用品が選定されることがある。何なら排泄用品の構造も知らないまま、これまた「こういうものだろう」「見たことがある」くらいで使っている介護者もいる。

ときに「これまでの経験から」などど、その人個人の経験だけで物事が決まりそうになることもあるから驚くこともある。

この感覚での介護業務もまた、潜在的に「人間は高度な存在」という勘違いに由来しており、だからこそ蓋を開けてみれば間違いとまでは言わずとも、不適切な介護になっていることも多々あるのだ。




このようにならないためには、文明を発展してきた人間としての振る舞いを行うことが大切だと思う。

「これはこういうものだ」と決めつけせず、主観ではなく客観性をもった検証を行うことが人間にしかできない手法である。

その事象がどれくらいの頻度で起こるのか、どのような状態なのか、それらを共通言語と検証法をもって一定量の検証する。

これはハッキリ言えば面倒くさい。しかし、感覚や経験だけの即座に出した結論よりは間違いは少ないはずだ。

上記の排尿量の事例で言えば、尿取りパッドの量を測定すればいいだけのことだ。これを一定期間続けることにより、客観的な検証結果となる。おそらく介護者が個々に「たっぷり」「ずっしり」とか言っていても、それが数字とした表されたときに違いが出るはずだ。
特にオムツや尿取りパッドは各社「1回あたり平均150ml ×回数分」で吸収できることが提示されているので、計測した尿量と比較すれば適切な排泄用品の選定ができる。



――― 最後は少し介護談義になってしまったが、言わんとすることは「人間ってそこまで優秀じゃない」ということであり、だからこそ地道だけれども検証というプロセスを経て間違いを減らし、かつ適切な道を進めることができるということを伝えたいところであった。

とりえあず「常識だろう」「考えなくても分かる」「何となくそんな気がする」という感覚めいた発言を言いそうになったら、それが例え面倒であっても客観的な検証やシミュレーションをすることをお勧めする。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。


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