「終活」への違和感、「今日をやりきった」という大切さ
「終活」という、人生の締めくくりに向けた準備活動がある。
エンディングノートなるものに遺族に対しての意向や必要な情報をまとめておいたり、自分が死んだ後の葬儀やお墓の手配などをしておくなど、その内容は色々ある。中には、自分の葬儀の棺桶を選ぶ人もいるらしい。
つまりは身辺整理であるが、自分が死んだことで家族や親族に迷惑をかけないようにという意図もあるのだろう。
あるいは、自分という人生にストーリー性を持たせたいのかもしれない。
きっと、自分の人生を振り返ったり現在の自分を見つめることで、自分の人生に意味付けしたいのだろう。
――― しかし、何だかこの「終活」なるものに違和感を抱く。
いや、他人の人生をどうこう言うつもりもないし、終活という活動を否定するつもりはない。好き勝手にやればいいと思う。
あえて違和感の正体を突きめるならば、この終活というものがビジネス的になっていることである。
家族に自分の意思表示をするならば、わざわざプランナーに依頼せずとも時間を見つけて伝えれば良いだけだ。エンディングノートなんて買わなくてもA4用紙に書けばいい。
うまくやりたいという気持ちはわかるが、終活という行為よりも形式にこだわっている様子が伺える。
終活の中身ではなく形式にこだわるがあまり、見栄えを良くしようと終活サービスや終活ツールに手を出すのではないか。
――― 別に終活ビジネスに対して「お行儀が悪い」なんて言わない。
むしろ、世の中のニーズをうまく汲んだものだと感心する。
いや、もしかしたら終活とはどこかの業界が仕掛けたのかもしれない。つまり、ビジネスを前提としたものかもしれない。
それならなおさら、逆説的に考えて、別に終活サービスなどに頼らずに、自分で自分の人生を考える機会にしたほうが良いのではないか?
このような偏屈な考えをしてしまうのは、おそらく介護という仕事をしていて色々な家庭環境や、高齢者の”死” に触れてきたためと思われる。
そもそも、人間なんていつ死ぬかなんてわからない。
自分で死ぬタイミングを選ぶことだってできない。
肉体が衰えていき死を覚悟しても、人間というのは案外しぶとい。
反対に、何とか生きたいと願ってもあっさり死んでしまうこともある。
本人が家族間で揉めないように準備してきても、亡くなった後で家族間で骨肉の争いを繰り広げることもある。
死ぬということに神秘性やドラマティックなイメージを抱く人もいるかもしれないが、そんなことはない。どちらかと言えばグダグダだ。
そんなグダグダな中で、亡くなった方のご遺体を前に関係者が「色々あったけど、まぁ良かったね」「生きているときは頑張っていたよね」と言い合えれば良いというくらいの話だ。
とは言え、たまには自分の死を考えることは大切だと思う。
そのとき考えることは、自分が死んだ後のこともそうだが、「今どう生きるか?」のほうが重要ではないだろうか?
終活という誰が広めたか分からないワードにとらわれて、どうなるか分からない人生の終わりをキレイにしようとするよりも、今の自分が心底楽しいと思えることに目を向けたほうが良いはずだ。
それは快楽や娯楽に溺れるという意味ではない。自分の成長や周囲を笑顔にすることへの投資である。
「自分の最期はどうしよう?」とあれこれ考えるよりも、その日をクタクタになるまで頑張って、寝る時に「自分は今日やりきった!」と言えるほうが良いと思う。
何なら「こんだけやったから、もう死んでもいい!」と思えるほどの1日を過ごせたならば最高ではないか。
「今日死ぬと分かったら何をする?」とまでは言わないが、毎日を終活みたいな位置づけとすれば、今日という日を貴重なものとして、本気で時間とエネルギーを注ぐことができるだろう。
自分の最期なんて誰にも分からない。
終活プランナーに聞いても分からない。
死は誰にでも共通に訪れるけれど、どのように・どのタイミングで訪れるかまでは分からない。
そんな分からないことだらけの”死”を考えるよりだったら、今を生き抜いてその生きざまを遺族に見せつけたほうが良いのではないか?
ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。
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