「摂津市熱湯、3歳児虐待死」、「道徳」で児童虐待といじめをなくすためのマスコミとの戦い①―

「摂津市熱湯、3歳児虐待死」、「道徳」で児童虐待といじめをなくすためのマスコミとの戦い①―

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(9月24日 朝日新聞)

 大阪府摂津市で、またしても3歳児という幼い命が、未熟な成人男性である松原拓海容疑者によって奪われた。
 しかし松原容疑者は、母親の交際相手と言っても、まだ23歳であり、もうすぐ48歳になる私の子どもの世代である。

 「自由論」で有名な社会思想家のJ.S.ミルは、松原容疑者のような若くて未熟な社会の構成員に対する理性的な道徳教育の必要性をまさにその「自由論」で述べている。

「社会の比較的弱い成員たちを教育して理性的行為の…水準にまで高めるためには、彼らが…無分別な行為を為すのを待って、…その後にこの行為を理由として法律上…の刑罰を加えるという方法以外には、方法がないかのように論ずることには、賛成することができない。」(J.S.ミル著 塩尻・木村 訳 「自由論」 岩波書店)

 自分になつかない交際相手の子どもを押さえつけ、熱湯を浴びせて死なせた。
 基本連れ子としての子どもは、(船越英一郎さんや哀川翔さんのような道徳的かつ社会で成功している人でもない限り)自分の父親以外の、挙動不審で未熟な母親の交際相手にはなつかないものである。

 だが、なつかないゆえ、感情的になって殺してしまった。
 哲学者のスピノザは次のように言っている。

「感情を宥(なだ)め、抑えるうえでの人間の無力を、私は「奴隷状態」と呼ぶ。
 じっさいもろもろの感情に服する人は自分を支配する立場になく、偶運の支配下に置かれているからである。」「『スピノザ エチカ抄』 佐藤一郎 編訳 みすず書房」
「スピノザは有徳な生活とは、いろいろの情念(デカルトの「情念論」における)に対する理性のたたかいであるとした。」(数研出版「精説 倫理社会」)

 人間には感情をなだめる上での理性が必要であるとスピノザは言う。

 まして善悪の分別が付かない未熟な社会の構成員に対しては。

 また、「社会契約論」で有名なルソーも、理性の必要性を強調しており、まさにその「社会契約論」の中で次のように言っている。

「それまで自分しか考慮しなかった人間は、違った原則に基づいて行動し、自分の好みに従う前に理性に図らなければならない。」(ルソー著 井上幸治 訳 「社会契約論」 岩波書店)

 2009年に慶応大学で行われた日本哲学会総会の後に、中学校の道徳教育のあり方について話し合う「四学系哲学会」が行われて、その席で私は発言して、(スピノザやルソー、J.S.ミル、美輪明宏さんが強調されるような)「理性教育の必要性」を説いた。中学生ともなれば「1+1=2」は理解できるし、また、児童虐待やいじめをするのは大半が男性であるため、そのような理性的な話は、たとえ中学生であっても、容易に納得して、自らの行動規範に取り入れることができると考えたためである。

「悩んでる時にはね、メンタルになるのが一番恐いの。人生の岐路ってあるじゃない。行き詰った時、落ち込んだ時、二者択一で迷う時、(中略)そういった時に一番必要なのは理性だけなのよ。だから感情は全部体の中から追い出しちゃうの。それで自分がマシーンになっちゃうのよ。ロボットみたいに。クールで冷たくて何の感情もないの。」
(美輪明宏 1993年 TBSラジオ「遠藤遼一 レディオトランシー」)

 だが、私の発言に対して、そこにいた文科省の官僚や学会員たちの反応はなかった。

 哲学に無学な官僚は仕方ないとしても、諸哲が理性的な道徳に重きを置いていることに全く注目しない、どうしようもない学会員に失望して、私は会合終了後に憤慨して足早に会議室を立ち去ったが(今、思えば、私の発言に対して誰からの反応がなかったとしても、必ずしも無視、軽視されていたわけではないと思うが)、傘を忘れたため、会議室に戻ったところ、大学教授である会員や若い職員に話しかけられ、居酒屋に行くこととなった。
 その場では私に声をかけた中年の大学教授が、その日に行われた大会中に、全共闘世代である高山会長が、たどだとしい口調で道徳の必要性を否定したため、他の年配の学会員に叱責される一幕があり、その年配の学会員を称賛する話が出た―。

 そして、事実、摂津市児童虐待の23歳の犯人は、2009年当時は11歳であり、この時期から理性的な道徳教育が広がっていれば、このような事件は犯人に「1+1=2」を教えることと同じくらい容易になくすことができた。

 道徳とはこのように小学生や受刑者だけに標語として押し付けるものではなく、最低限の普遍的な道徳は、数学のように、理論的に納得させるものなのである。

「児童にたいして…説明を拒否し、…理解させることを怠るならば、結局それは、不完全で低級な道徳性を無理強いすることになる。
…このように道徳を説き明かすことを目指す教育は、…真の道徳教育のためには、今後絶対に欠くことのできない条件なのである。」(デュルケム著 麻生誠/山村健 訳「道徳教育論」 講談社)

 だが、北野武さんみたいに道徳を曲解して、「普遍的な道徳はない」と言い切ってしまう人しか日本にはいないから、児童虐待はなくならないのである(※)。

 ※但し、武さんの著書『新しい道徳』(幻冬舎)は、この致命的な件(くだり)を除けば、及第点、85点くらいであり、周知の通り、世界的なタレントで、知名度が抜群にあるため、この件と道徳に否定的なスタンス(シニカル(冷笑主義)な芸風の芸人さんであるため)が誤りであるという前提ではあるが、推薦できる著書である。

 そもそもが道徳を普遍的なものにしたから、ソクラテスが初めて哲学者足り得たのであって、たとえば、電車でお年寄りに席を譲るなど、良いことを無理にやらなくてもいいし、一日一善もしなくてもいいが、たとえ未遂でその段階では合法であっても、犯罪よりも悪いようなことはしないという「普遍的な道徳」は存在するのである。

 そして、もし道徳が必要なくて、すべてが法律論で済むというなら、日大アメフト部の内田監督は不起訴で「善」であり、タックルをした大学生が傷害容疑で書類送検されたため、完全に「悪」である。
 したがって「道徳は必要ない」とする全マスコミは、日大アメフト部の内田監督の無実と悪くない側面を広めて、タックルをした大学生の犯罪行為を非難しなければならないが、現実は真逆であり、この一事だけをとっても、マスコミは完全に矛盾しているのである。

 私は保守だが、ネットでは道徳がないながらも日本を誇らしく思う人が多く、「ビジネス保守」が大勢(たいせい)であり、時には排外的な言論も多いが、私は道徳家であるため、MLBで大谷翔平選手が大活躍している一方で、三大宗教の道徳を知っている者として、「児童虐待をするような民族」という思いがある。

 

 もちろんそれは、児童虐待をした犯人に対してだけではなく、「それをなすがままにしている社会も含めて心底恥ずべきである」という意味合いである。だがそのような軽蔑とは、日本国民に対してではなく、私が20年提言してきたような、実効的な解決策に全く向き合わないマスコミに対する怒りである(マスコミは選挙で選ぶ(落とす)ことができないため)。

 「反日」と言われればそうだが、朝日新聞とは全く違う意味合いでの、テレビ民放や朝日新聞が否定する「道徳」が日本社会にはないことに対する非難としての「反日」であり、道徳を否定する日本のマスコミが助長している児童虐待そのものを厳しく非難する哲学的な警告であり、怒りである。


 そして、「また大阪か」という思いもある。


 朝日新聞と一緒になって、テレビで公然と道徳を排撃して、IRカジノや水道民営化などの新自由主義を推し進める橋下氏の維新が大阪では強いためだ。そして公然と道徳を否定する維新の政治家には、とても政治家とは思えないような信じられない不祥事が後を絶たない。


「大阪府内で去年、虐待被害の疑いで、警察が児童相談所に通告した子どもの数が1万2000人を超え、7年連続で全国最多でした。」 (ABCニュース 関西ニュース 2021/3/11 19:25)

 また、2009年の慶応大学以前に、私が2000年代初頭にマスコミ各所に送っていた哲学的な道徳提言で、あの頃に、道徳の必要性がマスコミによって広まっていたら、間違いなく桜利斗(おりと)くんは死なずに済んだ。


 なぜなら道徳の必要性によって、激増する児童虐待自体の数を減らしていけば、必然、その中でも特に深刻な事態の数も減り、それによってこのような痛ましいケースも未然に軽減し、防げるためである。


 しかし、戦後75年、道徳を排斥してきたマスコミがこうした痛ましい児童虐待に対して、反省の色を示すことは微塵もない。
 西部 邁(にしべ すすむ)は彼の著書「国民の道徳」で次のように言っている。

「…彼ら(戦後知識人)の唱える個人主義や自由主義は他者への冷酷な無関心と張り合わせになっているといわざるをえない。
 そうでないとしたら、彼らは価値判断の問題に、いいかえれば道徳の問題に、死活の覚悟で取り組んでいるはずである。」(西部邁 著「国民の道徳」 産經新聞社)

 つまり、日本のマスコミにとって、日本人の子どもが児童虐待で殺されることは「完全に他人事」であって、キャッチーなSDGsやLGBTなど、自分たちを自己正当化できるような話題にしか関心がないのである。


 ここでは長くなるため省略するが(いずれ新著に掲載するが)、道徳を否定することは、未熟な社会の構成員の悪意をそのまま承認するか、少なくとも完全に野放しにすることでもあって、つまり真っ向から道徳を否定する日本のマスコミは(おそらくはイスラム国も)、どう控えめに言っても、「日本の子ども殺人マシーン」なのである。


 また、これまで何度も述べているが、児童虐待が2019年に19万3千件起きていて、そのうち摘発されたのが1900件程度であり、「摘発されない残りの99%の児童虐待は親の「道徳」でしかなくせない」のである。


 今回は摘発されたが、もう桜利斗(おりと)くんは死んでしまっている。


 しかし宗教倫理が極めて希薄なこの国では、未然の「道徳の必要性」ではなく、桜利斗くんが殺されてしまった後の、事後的な摘発だけが、児童虐待を止める唯一の解決策なのである。

 だが道徳ではなく法律によって摘発された時には、今回のケースのように、すでに「完全に手遅れ」なのである。

 つまり今の日本は、高齢者が3600万人、認知症高齢者が500万人もいるのに対して、昨年は史上最少の84万人の低出生数であるが、このような痛ましい児童虐待を事実上放置している以上、道徳に全く理解がない日本のマスコミや政治家は少子化どうこうを言う「資格すらない」のである。生まれてくる子どもを守る気すら全くないし、その能力すら「完全に皆無」であるから。

 そして仮に摘発されても、子どもが死亡したり、重大な障害が残るケースがあるので、ほぼ100%の児童虐待は親や母親の交際相手の道徳によってしかなくせないが、マスコミが戦後75年もの間、国民から道徳の必要性を執拗(しつよう)に遠ざけ続けてきたため、今日のような、世界的に見ても、人類史上稀(まれ)に見る、児童虐待が後を絶たない社会となってしまっている。

 場合によっては、田原総一朗のように道徳の必要性を明確に否定した輩(やから)もいる。

 私も20年以上、各所に提言を出したり、ブログを書いたり、本を出版したりしてきたが、テレビ、大手紙の高くて分厚い壁の前に全く理解されず、疲れて諦めていた思いがあった。
 しかも、その上、ネットで私を誹謗中傷している人たちまでいる始末であり、ツイッターで発信しても、全く反応がなく、ブログをなかなか更新できないのも、年を取って体力がないとともに、不毛な徒労で終わることにどうしようもない虚しさを覚えていたためである。

ただ、新党結党を模索している上田清司埼玉県知事からは2004年に私が出した道徳提言に対して、唯一直筆で賛同の返事を頂いたことはせめてもの救いであり、これまで私が一人で道徳活動を続けてこれた一助となっている。

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熱湯をかけて死なせた今回の摂津市の事件で、朝日新聞は「シャワーは最高75度まで温度を上げることができるタイプだった」と書いているが、唯物主義の彼らは、道徳の必要性ではなく、「熱いお湯の出ないシャワーを広めること」を社説で本気で主張してくるかもしれない。


 だが、もちろんそんなことは難しいし、子どもが聞いても、人を「モノ」としか考えられない唯物主義の対策は、あまりにも幼稚でバカげた妄言(もうげん)であって、また、野田市の小学4年、栗原心愛(みあ)さんは、逆に冷水のシャワーをかけられて亡くなってしまったのであって、そもそもがシャワーではなく、別の手段を用いた児童虐待がほとんどであり、道徳を全否定するマスコミがいる限り、道徳の必要性が行き届いていない親や母親の交際相手による児童虐待は収まりそうにない…(「日本では、完全にバカな人たちしかテレビや新聞で発信できない」と言いたくはないが。ノーベル賞受賞者や戦後の高度成長、モノ作りなど、日本の特に団塊世代以降は、つくづく「理系の人たちや職人さんたちだけ」が優れた国ではある…)。

 

 この桜利斗(おりと)くんの、絶望と悲しみの叫びが聞こえてきそうな痛ましい事件を機に、私一人だけで「児童虐待といじめ自殺をなくすための道徳講演会」という出版と講演会のプランを立ち上げたいが、今のところ、マスコミや(幻冬舎を除く)出版界、政界、芸能界、ネット(すべての著名な保守論陣)に私の賛同者は誰一人いない。

 

 「ヘンな人が増えたのが成熟社会」と社会学者の宮台真司氏が言う今日(こんにち)の日本社会にあって、「日本のために生きること」は、恐らくは、あまりにも皮肉にも、凶悪犯罪を犯すことと同じく、「1対1億の戦い」…なのである。

 私以外の日本人は、私とは異なり、児童虐待やいじめ自殺、その他日本中で起きている諸々(もろもろ)の非道徳を承認、容認して、他人の不幸をあざ笑うか無視するか、ネットで匿名で卑劣に誹謗中傷するか、あるいは左派マスコミのように、自らの利益と支持拡大のために、人の不幸を「自己正当化」に利用して、「自分の利益だけのために」、自己本位的に生きなければいけない。無論、日本人の富の流出と格差拡大だけを進める新自由主義によって、その前提も全くないが…。

 マスコミとネットからの絶対的な迫害の中に、私はある。

 道徳がなくなって、極めて貧しくなりつつある日本人しかいない成熟社会のさ中に―。

  ② (後日投稿予定)につづく。


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