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音読の時間

コロナ渦に入り、声を出して本を読みたくなった。
ふみさんのベッド脇にあった、『もの食う人びと』(辺見庸著/角川文庫)を手にとり、「私が読む!」と言った。
それから読む日は一章ずつ、寝しなに読み進めて行った。
自粛で家に留まる中、著者と一緒に世界の僻地へ行き、各地の食事事情を垣間見て、そこで“生きるために食べる“ということ、命の営みの尊さを考えさせられた。

今は朝日新聞で毎週金曜日の夕刊に掲載されている、『ガリバー旅行記』(ジョナサン・スウィフト著、柴田元幸訳)を一緒に読んでいる。

声に出して読むことは難しい。
聞き手はふみさんしかいないけど、字を目で追い、文章の意味を汲み取り、それを声に出して、抑揚をつけて、伝えることに注力する。
私が読んでいるのを、ベッドに横になりながら聴いているふみさんが、「なるほど」と相槌を打つ度に、意思疎通する小さな喜びを感じている。

(カ)


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活字だけでは生きてゆけない、とは、ある著者の方の読書日記のタイトルなのだが、同じく私もまた、本に生かされながらも本だけでは生きてゆけない、不埒な人間だ。読むにしても集中力はつづかず、ひとりでさえそんな塩梅なのだから、相互的に解釈を深めていく読書会の類にも、ほとんど参加したことがない。


そんな人間でも、妻との音読の場は、不思議とつづいている。というより、眠い、だるいといったときはどちらかが嫌がるから、2人ともゆったりと読めるときだけ、寝しなの音読会は開かれる。片方が読み、片方が何とはなしに聞く。
妻が読む文章から想像が膨らみ、フッと関係のないところへ意識は飛び、また戻ってきたときに読まれている文章に発見があって、「なるほど」と呟いたりする。妻は妻で、見知らぬ世界を愉しみながら、淡々と読んでいる。


きっと、この散漫さが大事なのだ。人は(あるいは人と人は)散漫でなければ生きてゆけない、おそらくは。

(文)

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