見出し画像

『ショートショートの神様』

足元に浮かぶパステルカラーの雲の合間に、若葉のような緑色の日本が見える。
鮮やかな青い海には白くさざ波が立ち、クジラが優雅にピンクの潮を吹く。
目の前を渡り鳥の群れが横切る。

これは幼い頃の私の記憶。

---

小学校から帰ると私はまっすぐ自分の部屋に向かった。
ランドセルと重たい手提げ袋を机の横に置いた。手提げ袋の中には学校から借りてきた図書室の本が入っている。そして壁にかかっている別の手提げ袋を手に取って部屋を出る。
キッチンに行き、冷蔵庫からヤクルトを一本取り出して飲んだ。
奥の部屋で仕事しているお母さんが顔を出さないのはいつものことで、私はそのまま玄関を出た。

子どもの足でも歩いていける近所の市立図書館には小さな頃からよく通っていた。
幼い頃は母親と一緒に絵本や児童書のコーナーで時間を過ごし、棚にある本を飽きることなく開いた。
小学校に上がると、学校の図書室で児童向けの本を次々と手にするようになった。中でも夢中になった文学シリーズを読んでいたある日、あとがきが目に飛び込んだ。
「この本は原作を子供向けに書き直したものです」
大人向けの原作があるんだ!
そのことに気付いてから、市立図書館通いが再開した。
学校の図書室で借りた児童向けの本と同じ著者の棚を探し、同じタイトルを見つけて借りる。
タイトルがアレンジされていたり、ひらがなと漢字の違いもあった。大人向けの本なので文字は小さくルビも振られていない。それでも、児童向けの本と読み比べながら内容を理解することができた。まだ習っていない漢字や新しい表現を知る楽しさも大きかった。

その日も、いつものように学校で借りた本の大人向け版を探して小説コーナーをあいうえお順にたどっていた。
クラスの中で特に背の小さかった私にとって、天井近くまでそびえ立つ本棚の合間は森の中をさまよう探検に近い。
探している本は手の届かない上の段にあるみたいだ。私は本棚に備え付けられているハシゴを見つけて引っ張ってくる。使い方は前に図書館の司書さんに教えてもらった。
ハシゴに足をかけて登り始めた。4段目の背表紙を見る。もっと上だ。私はハシゴの先を見上げた。
ハシゴは天井を突き抜けるくらい、長く伸びていた。
こんなんだったっけ。
不思議に思いながら登りはじめる。本棚の上までたどり着いてもまだハシゴは終わらない。気が付いたら天井はなくなり青空が広がっていた。
いつしか私は目的を忘れて、終わらないハシゴをどんどんと登り続けていた。
目の前を鳥が横切り、遠くに見えていた雲も追い抜いた。
この先に何があるのだろう。当時の私にはまだ難しいことを考えるほどの知識がなくて、ただ目の前にあるハシゴに一段ずつ手足をかけていた。
やがて、ひときわ大きな雲の真ん中あたりにぽっかりと空いた穴が見えた。その穴に向かうハシゴを登って厚い雲を超えると、そこがハシゴの終わりだった。

雲の上は一面が雲だった。
足を乗せても大丈夫なのか判断ができないままハシゴにしがみついていると、人影が近付いてきた。ニコニコと笑った背の高いお兄さんだった。
お兄さんは優しそうな笑顔で「いらっしゃい」と膝をついて手を差し伸べてきた。
おそるおそる伸ばした私の手を下からすくい上げるように取ってゆっくりと引きながら、お兄さんは私をハシゴから雲の上に立たせてくれた。
自分がまるでお姫様になったような扱いに少しドキドキした。
「君も先生に会いに来たのかな」
先生?
疑問を口にする間もなく、お兄さんは「こっちだよ」と私の手をつないだまま歩き始めた。
「僕はたろーっていうんだ」
「たろー、さん」
漢字が思い浮かばなくて、聞いた音をそのまま復唱した。
ふわふわと沈む絨毯のような感触の雲の上を歩いていくと、白くて四角い建物が見えてきた。扉はなく、壁に大きく空いた四角い入り口の奥に、大きな本棚が並んでいる。
白い壁に近付いてみるとコンクリートのように平らで、指を当てるとサラサラとした感触だった。雲の上にこんな重い物を乗せて大丈夫なのかなって心配した。
中に入ると、暗がりの奥にほのかな明かりと人影が見えた。
「お仕事の邪魔はしないように、話しかけてみるといいよ」
そう言うとたろーさんは私の手を離して、また雲の上へ戻っていった。
置いていかれた私はしばらく入り口で立ち尽くしていたものの、たろーさんの言うことだから怖いことは起きないだろうと、勇気を出して奥に向かって歩いた。
木製の椅子に座った先生の後ろ姿はスッとして、白髪混じりの髪は一定方向に流れて整っていた。
机に向かう先生の右手は絶え間なく動き、ペンを紙に走らせるサラッサラッという音が不規則に流れ続ける。
机の横には文字が書き綴られた原稿用紙が山のように積まれていた。
近寄って原稿用紙を覗き込む。びっしりと書き込まれた大人の崩し文字は解読が難しかった。眉をひそめながら顔を近付けていると、先生が突然手を止めてペンを握ったままじろりと私に目を向けた。
優しい笑顔のたろーさんに比べて、それは恐ろしい表情に見えた。
ハッとして私は先生の前に直立した。
「こ、こんにちは」
おそるおそる挨拶をする。
先生はすぐには返事を返さず、私の頭から足の先まで目線を2回ほど往復させると「君も書くかね」と尋ねてきた。
想像よりも少し高い声だった。
「えっ」
いつも本を読むばかりで、今日も本を探すため図書館に行った。
あまりにも不可思議なことが続いて思考がショートしていた私の頭に「書くかね」という問いかけが響いた。
「書くのなら、書き続けることだ」
気が付くと、先生は顔を原稿用紙に向けて再びペンを走らせていた。

原稿用紙が雑然と積まれた机の周辺とは違い、本棚はサイズごとに綺麗に収納されていた。
「最近来た若いのが勝手に整理していくんだよ」
机に向かいながら先生がそう言った。きっと、たろーさんのことだ。
たまたま不思議なハシゴを登ってきた私と違って、たろーさんはきっと作家を目指して先生に弟子入りするためにここに滞在しているのだろう。
勝手と言いながら、先生の口調から迷惑そうな響きはしなかった。
手近な本を手に取りページをめくる私に、先生がまた声をかけてきた。
「読むのが好きならこれを持って行きなさい」
それはカバーのかかっていない黄土色の表紙がむき出しの文庫本だった。タイトルや著者名は記載されていない。
「満足したかい」気が付くとたろーさんがそばにいて、私に優しい微笑みを向けた。私は帰る時間が来たことを悟った。
「では行きましょうか」
ハシゴから私を降ろしてくれたときのように、たろーさんは私の前に膝をついて手を取ってくれた。

先生のいる白い建物を出ると、目に突き刺さるような眩しい明るさが襲ってきた。
たろーさんに手を引かれながら真っ白な雲の上をふかふかと歩いて、ハシゴに到着する。
上から穴を覗き込むと、はるか遠くに日本が見えた。
「海の近くから来たの?」
ハシゴの伸びてきた方向を眺めながらたろーさんが聞いてきた。
こくんと頷くと「良いところだね」とニコッと笑ってくれた。
「たろーさんはどこから来たの?」私も聞き返してみると、たろーさんは「あっちの方」と日本の北の方を指さした。
私はハシゴに足をかけ、たろーさんとつないでいた手をするりと離して、両手でハシゴを持った。
「じゃあ、気を付けてね」
笑顔で手を振るたろーさんに、私も笑顔で手を振り返した。
足元を確認しながらハシゴを降りる。
登るときよりも一歩一歩に緊張した。それでも不思議と怖さはなかった。
周囲にはパステルカラーの雲がぷかぷかと浮かび、渡り鳥の群れが目の前を横切る。足元を見れば山が煙を吹き出し、海の波間を優雅に跳ねるクジラ尾びれが見える。
いくらか進んでふと空を見上げると、たろーさんと先生のいる雲の世界ははるか遠ざかっていた。
私はそのまま黙々とハシゴを下り、やがて本棚が見え、人間のいる空気の香りがして、コトンと硬い床に降り立った。
周囲はあの時のまま、天井に届くくらいの図書館の本棚と書籍の森で、青い空は天井にふさがれて見えなくなっていた。

---

あれは夢だったのだと思う。

私は壁一面に貼った大きな日本地図を眺めながら、あの日の出来事を繰り返し思い出す。
上空から見た日本は海岸線も丸くデフォルメされていて、風景も現実にはあり得ないパステルカラーで彩られていた。地形や動物たちの遠近感もおかしかった。
仮に上空まで届くハシゴがあったとして、日本を俯瞰できるほどの高さまで子どもの足で登るなど現実的ではない。
あの不可思議な出来事は、それでも私の体験としてはっきりと記憶に残っている。
そして唯一の大きな物証。
自室の本棚に並んだ背表紙の中で、一冊だけカバーのない無記名の黄土色の文庫本がある。
何度も手に取ってページをめくってきた。
いくつものショートショートが収められたこの書籍は、あの先生による作品集だった。現実世界で入手できるほぼ全ての出版本を手に入れて同じ作品を見つけてきたから間違いない。
ただ、この本と同じラインナップの収録本は、今のところ一冊も存在していない。

さて、と。
荷物をまとめて、壁の日本地図をもう一度振り返る。
北から南まで各所に貼った付箋は、それぞれにストーリーのタイトルやメモを書き込んである。
私は、あの日上空から見た日本をこの足で歩きながら、物語を書いている。

北の地方を訪れるときは、いつもたろーさんを意識する。その範囲はあまりにも広く、たろーという名前はあまりにもつかみどころがない。
でも先生を慕ってあの場所にいたのなら、たろーさんもきっと書き続けている。

空の上で優しいお兄さんと出会い、神様と呼ばれるショートショート大作家の創作風景を目の当たりにした。不思議で特別なひととき。
先生は死ぬまでずっと書き続けて、空の上でもまだ書き続けている。

私もこの手を止めてはいられない。
書いても書いても書き足りない物語が、ここにはまだ溢れている。

終(4000文字)

この記事が参加している募集

私の作品紹介

スキやシェア、コメントはとても励みになります。ありがとうございます。いただいたサポートは取材や書籍等に使用します。これからも様々な体験を通して知見を広めます。