ほりうちけーアレクサンダーテクニーク教師

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ほりうちけーアレクサンダーテクニーク教師

「自分の使い方」を教えています 。レッスン予約はこちらから→ https://alexander-technique.webnode.jp / ちば とうきょう よこはま / アルトクラリネット吹き / くるり 世武裕子 マスドレ リーガルリリー ずとまよ

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目指すところは同じ。

どこの世界にもありがちだと思いますが、 始まった頃は源流が一緒なのですが、 だんだん世代が重なっていくと話が噛み合わなくなってくる。 目指す所は同じであったはずが なんだか違うもののようになってくる。 アレクサンダーさんは自分と向き合って 自分自身を観察し、自分自身を使って実験をした人です。 ポジティブに言い換えるとか、 イメージするだけとか、 こう動かすといいですよとか、 お手軽なものに聞こえるものが多くなっています。 私自身初めはポジティブに言い換えるとか、 そっ

    • 間違いを。

      すぐに訂正しようとすること。 落ちたものはすぐに拾わなきゃっ、とか、 間違いはダメっ、って思い込みありませんか。 最近思うんですよ。 間違いがない人なんていない、って。 そのままでいいんだよ、とか言うつもりはありません。 間違っているなら訂正しようとする。 これは大事なことです。 でも、でも、ですよ。 他のことは放っておいて、パッと 間違いにだけ飛びついて なんとかしようとすることって、どうなんでしょう。 それまでの自分を否定することではないでしょうか。 ゆっく

      • 答えと自分。

        自分を通して検証するのか、 検証されたものを自分に当てはめるのか。 むかーし、算数で検算というものを習いました。 答えが合っているかを確かめるためです。 でも、これって、確かめるというよりも、 道筋をもう一度通りなおすことのほうが 重要なんじゃないかなって。 もしくは、別の視点でたどり直してみる。 最新の科学や、なんちゃらが 出した答え、多分本当なんでしょう。 でも、それを自分自身に そのままか、少し手を加えて 当てはめようとすることは、 自分を置いてけぼりにしていま

        • 「やめる」と「やる」。

          二つの境界線がわからなくなるんです。 久しぶりに受けたレッスンで わたしがやってしまっていることを 教えてもらったんですが、 そのやってしまっていることを やめるために、 「なにもしなーい、なにもしなーい」と 思っているのですが、 思い続けていると、すぐに あれ?これ、いま、 やろうとしているのかもしれない、と そんな気がしてくるんです。 やめようとしているのに、 やろうとしてしまっているかもしれず、 この二つを分けることができないように思えてくるんです。 なにもしてい

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          いきいき感。

          何かを真剣にしている時 ありがちなのが、目が死んでしまっていること。 そうしようと思って、しているなら問題はないでしょう。 でも、そうなってしまう、そうしちゃう だった場合は、死んでしまわない目で 真剣になれるよう練習する方がいいかもしれません。 なぜ死んだ目ではうまくいかないのか。 内にこもってしまっているからで、 内に籠ることをやめられたとしても、 内にこもって練習したことが 多分、おそらく、十中八九、 再現できないんですよね。 やってみればわかります。 内に

          姿勢の話。

          アレクサンダーテクニークの レッスンを重ねていくうちに なんだか姿勢が良くなっていた、 なんてことはよくある話です。 どうしてこんなことが起こるのでしょうか。 古いものは新しいものよりも強い。 古いものっていうのは これまでずっと繰り返してやってきているものです。 知らずしらず反復してどんどん強化しているんです。 新しいものはこの強化されたものに負けてしまうわけです。 知らず知らずのうちに新しいものなんていうのはどこかへ行って いままで通りのやり方でやってしまう。

          どこでもない、ここ。

          ここではないどこかへ、ではなく、 他でもない、ここ、にいること。 身体のこと、自分のことを知りたいと思うようになって あれやこれやと調べたり実際に習いに行ったりしましたが、 もうほとんど全部と言っていいくらい、忘れました。 実感から言いますと、わたしにはいらない。 まだアレクサンダーの学校に通っている時 学校の先生に言われたことあるんですよ。 「いろいろあるけどアレクサンダーだけでいい」って。 その方の実感がこもった言葉でしたが、 わたしもそう思うようになっています。

          判断できる?

          もうすでに知っていること。 まだ知らないこと。 知っていることならばある程度の予想はつきますが、 まだ知らないことについては判断できません。 なぜって、まだ知らないから。 レッスンの進みが遅くなったなと感じる方は 判断しようとしている人です。 まだまだ経験し始めたばかりなのに 判断しようとしてしまっているんです。 これも仕方ないことなのはわかっています。 わたしもやっていましたから。 ずっと抜け出られずにいました。 いや、正確にいうと そこにいることすら気づいてい

          脱力?

          全く別ものなんです。 脱力というと、たいていは、 意識して力を抜くわけですから 意識していない時はまた元の状態に戻ります。 アレクサンダーテクニークで目指していることの一つである 「やめる」は、自ら力を入れているということに気づいて 力を入れているなら、 やめれるものは、やめる。 もう一歩進むと、 力を入れたきっかけとなる 刺激に気づけるよう観察する。 なにが力を入れるという反応をすることになったきっかけなのか。 ここでいう「力」って ぎゅっと手を握るような力の入れ方

          頭がたかいたかい。

          いやー、すっかり忘れておりました。 頭はいつでも高いところにあるんだ。 いつものように書きますが、 頭を高く'する'んじゃないんですよ! 胴体の方にめり込むようにしていることを やめるんです。 やめたら、 頭はたかいところに居続けることができるようになります。 偉そうな記事を書きつつも、わたしも 忘れていることがいっぱいあると言うことです。 でもね、 できていないことを棚に上げないと なにも発信なんてできないのも事実。 (言い訳しつつ) 頭はたかいところにあり

          胸骨って。

          いやー、ほんと大事なんですね。 エリザベス・ウォーカーさん、わたしの大師匠が 1999年のコングレスという、アレクサンダーテクニークを 学んでいる方々が世界中から集まるところでの マスタークラスで仰っていた言葉がずっと気になっていたんです。 その言葉は「リフティング ザ チェスト」と わたしには聞こえたのです。 え?!胸を上げるんですか?と。 で、ですよ。 例の如く、英語圏でチェストというのは どういう範囲を示すのかを調べた限り、前側の胸、 日本語で言う胸とそんなに変

          うなじを伸ばす。

          わたしが好きなサックス奏者雲井雅人さんの お勧めしていた本を読んで。 柴田睦陸(しばたむつむ)さんの記事。 そこにはアレクサンダーテクニークと通じるような、 そんなことが書かれていました。 (「声楽ライブラリー3」に収録されています) うなじを伸ばす。 吸ったことで起こる変化のまま歌う。しかも、 うなじを伸ばしたんじゃ、 喉が側が縮む、そうではありません、 顎やその周りがフリーになることが目的です、とも。 首フリー頭前上で背中広く長く。 柴田さんのいう状態は、これなんじ

          思い込み。動き。

          アレクサンダーテクニークがなんだかややこしく感じることの原因は 心と身体を別々に考えることが、一般的に 普通だと思われているからだと思うんです。 身体の機能、心肺機能や運動に関するものなどと 精神的なもの、思い込みや固定観念などは コインの裏表のようなもので 一方が変われば一方も変わる。 レッスンでは同時に進んでいきます。 思ったことは動きに現れるので 動きを中心に見ていきますが、 動きは思い込みによって 知らず知らずのうちに自分で制限をかけてしまっているので、 これも変

          習慣の強さ。

          何かをする時にやろうと思っていたことを 忘れてしまうことって、よくあります。 それは記憶の話だと思われていますが 多くの場合違います。 レッスンの中での話で言うと、 首の観察をし続けておいてください、 それだけがお仕事です。 生徒にこう言っていても、 動き始めると忘れてしまいます。 これは性格の問題や 記憶力の問題や その他なんでもいいのですが、 それらとは関係がないことが多いです。 首の観察をするだけ、 なのに忘れてしまう。 何が起こっているのでしょう。 私もトレ

          落とし穴。

          観察しているとき、あることに 陥ってしまっていることに気づけなかったりします。 気づけないとほんとに気づけないんですが、 例えば、手を動かすところを観察しよう、 と、その時に 動かしている手を観察しているのか、 自分が動かしたいように動かしているのを できているか確認しているだけなのか、が 重なり合っていてわからないんです。 動いているところを観察しているのか、 動かしていることを確認しているのか。 自分の手なのに、あたかも 他人の手かのように見られていますか。 他人

          観察の精度。

          刺激が反応を起こさせるきっかけになる。 どういう反応をするのかは その時の使い方によって決まる。 習慣的なものになるのか、 刺激に反応せず、 意識的にコントロールされた反応を取れるのか。 ここでややこしくなるのが、感じられている 「感覚」は間違っているかもしれない、という事実です。 習慣的なものではない、と感じられていたとしても その「感じ」というもの自体が 間違っているかもしれないんです。 じゃあ、どうすればいいのさ!となりますが、 自分の感じていることは間違って