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探しものは、私たちの中にある

NORIKO MURAKAMI さんの『探しものはなんだろう』を読んでいて、むかし読んだ仏教書を思い出し、そこから私自身が書いた『内なるトリックスターとつながろう!』へと連想がつながっていきました。ここでは、そのつながりについて記します。

MURAKAMIさんの記事は、こちらです。

私に仏教書を思い出させてくれたMURAKAMIさんの言葉を記事から抜粋します。

創造性も、対話も、多様性も、そして心理的安全性も、そもそも「つくるもの」ではないと思っています。
もともと有していた大切なものを、置き去りにしてしまったのでは?
もともと有していた貴重なものを、無くしてしまったのでは?

NORIKO MURAKAMI 『探しものはなんだろう』から抜粋。太字部は、楠瀬が太字化。

MURAKAMI さんの言葉で私が思い出したのは、臨済宗の創始者である中国の高僧、臨済義玄が弟子たちに語った言葉を記した『臨済録』です。臨済は、弟子たちに語ります。

汝、今の応用の処、何をか欠少す。

お前たち、今ここにはたらいているものにいったい何が欠けているというのだ。

『臨済録』朝比奈宗源 訳注 『岩波文庫』1982年から引用/漢字表記を楠瀬が一部改変

『臨済録』は、かつて数回読んだのですが、結局分かったという自信はないことをお断わりした上で、私が「わかった気になっている」レベルで、臨済義玄が言わんとしているところをお伝えすると、こんな感じだと思います。

君たちは、自分自身の外にある「悟り」を発見し習得しようと、この寺に修行にくる。その入り口で、君たちは間違っている
「悟り」は、すでに君たち自身に備わっている。ただ、君たちにはそれが見えていないだけだ。

MURAKAMIさんの言葉とそっくりです。

さらに、『臨済録』から引用します。

道流(どうる/楠瀬注:修行僧のこと)、大丈夫児は今日まさに知る、本来無事なることを。ただ、なんじが信不及なるが爲に、年々馳求(ちぐ)して、頭を捨てて頭を求め、自ら止むこと能わず。

お前たちよ、われこそはという大丈夫の気概のある者ならば、たった今、ここで自己が本来仏であり、他に求むべき何ものもないことを見てとれ。残念ながらお前たちがそれを信じきれないために、外に向かってせかせかと求め回り、頭があるのに頭を探すの愚をいつまでもやめない。

『臨済録』朝比奈宗源 訳注 『岩波文庫』1982年から引用/漢字表記を楠瀬が一部改変

ここでMURAKAMIさんに戻ります。

「価値の創造を。対話しよう。多様性を重んじる。」聞き慣れた言葉になってしまいました。私もよく発します。
一方、これらの言葉が、求められているものとして叫ばれること自体が、残念なことと感じています。
脚もとを省みることで、みつかるものもあるはず。本質は、いつもシンプルです。

NORIKO MURAKAMI 『探しものはなんだろう』から抜粋。太字部は、楠瀬が太字化。

MURAKAMIさんが、そして、臨済が言うとおりなのです。私たちには、対話す力、創造する力が備わっている。ただ、自分がそれを備えていることが見えなくなっているだけなのです。

では、何が、それを見えなくしているのでしょう? 私は、私がGAVIさんからヒントを得て書いた『内なるトリックスターとつながろう!』の次の一節の「トリックスター」を「対話する力と創造する力」に置き換えると、それが上の問いに対する答えになると思っています。

私たちは、「答えがある」世界をメンバーシップ型雇用に守られて生きてきた時間が長すぎて(……というと、主に中高年の話になるのでしょうが)、組織人としての自分(ペルソナ)と内なるトリックスターを結ぶ回路を完全に遮断した状態になってしまっているのです。

『内なるトリックスターとつながろう!

ヒントをいただいたGAVIさんの記事はこちら;

私の記事はこちらです:

対話と創造性が求められている今、私たちがなすべきことは、私たちの外に対話と創造の方法論を探し求めることではなく、私たちに本来備わっている対話する力、創造する力に気づき、それとのつながりを取り戻すことだと、私は考えています。

探しものは、私たちの中にあるのです。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

『探しものは、私たちの中にある』おわり


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