終わりが見えることで、今の彩りを感じられる

春に引っ越しをすることが決まってから
家族 皆、今住んでいる地域での些細なことが
色鮮やかに、とても暖かく感じている
30代サラリーマン kskです。
 
 
よく行ってたあのお店、今のうちにまた行こう!
新しい場所より、いつもの公園に家族で行こう。
通勤のいつもの道も、改めて景色を見てしまう


もちろん些細なことだけではなくて、
人間関係も、今までの日常がひとつひとつ
とてもに貴重に感じる。

学校のお友達と、今のうちにアレをしたい。
幼稚園の友達と、一緒に何処どこに行きたい。
ママ友と、お話やランチをしておきたい


今までは大して何も感じずに
流れていっていた日常が。
終わりや、別れを感じることで
モノクロの見慣れた絵が、カラーになるように
単調だった音が、軽快なリズムに変わるように
急に新鮮さを感じさせてくれる


社会人になって、
こういった区切りが少なくなったように思う

毎日走り続ける
年度が変わっても、土日が終われば次の戦い
常に競合他社も、走り続けている
終わりや、区切りはないなぁ。。

学生の時には
学年や、クラスが変わったり、進学したり
長期休みがあったり、いろんな区切りがあって、
いろんな彩りがあったけど。。


今思うのは、
終わりが見える、ということで。
日々、何気なく見えている景色や
身の回りの音や、言葉だったり
気候や空気ですら、感慨深く感じられるなぁ、と。。


でも本当は
いつだってそうなんだったんだと思う
もともと、カラーで、暖かくて、美しい音色が
毎日身の回りで刻まれてたんだと思う

けど。

慣れる、と言う事や
いつまでも続くって、勝手に思っていること
終わるなんて、想像もしていないこと

そういうものが、
日常の大切さや、ありがたさ、感謝さえも
どんどん、薄く薄くしていってしまい
しまいには、マイナス面ばかりに
目が行ったりするのかな、、と、思ったり。



…卒業式の時に
合わないし、こいつ腹立つなって思ってた奴と
握手して、抱き合ったことがあった

モノクロだと、
自分と合わないところばかりが見えたけど。
カラーになって初めて、
良いところや自分がもらったものが見える
そんな経験だったように思う。




小学5年の時に
突然、祖父が亡くなった。

大好きな祖父に、
ありがとうも、大好きだよも、寂しいよも言えず
泣いて泣いて、泣いて
畑仕事も、将棋も、虫取りも、何でも教えてくれた祖父だった。

全く想像していなかった。
いつも通り、寝坊気味に学校に急いで行って
行ってきます、すらちゃんと言えない日だった


もし今日が、最後だって、知ってたら


終わってから気づくのでは、遅いんだ
あの慣れてしまって繰り返した、
モノクロだった日々は
モノクロのままで、戻ってこない


終わりや、限りがあること
終わりを、しっかり見ること、感じることで

今、慣れてしまったり
つまらなく感じてしまうことさえも
きっと、彩りを感じることができるように思う
感謝や、有り難みを。


ついつい、目の前の美しさや喜びよりも、
今後のための効率や生産性を重視しがちだけど。

今の生活や
今、隣にいてくれてる人や
もしくは遠くにいる、家族だったりは

いつまでも、
そこには居ない
終わりがある

そこに、一度目を向けるだけで
沢山のことが、カラーになったり
感謝や有り難みを、
改めて実感できるかも知れない


そう思った日でした。

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