見出し画像

話し言葉と書き言葉

今日は久々に手でnoteを書こう。
話し言葉と書き言葉。
どちらも自分から溢れる言葉には変わりはないけど、
出てくるルートが違う。
手と口。違う蛇口から出る水。
軟水と硬水。見た目はおんなじだけど、飲んでみるとちょっと違う。
髪の毛や肌も洗った後の質感が変わってくる。
触れてみるとその違いにちょっとだけ気づく。
書いてる時も違う。
手で書くと「書いてる」感じがする。
ちょっと疲れる。「やった」感がある。
本質よりも「やった」感を重視しがちな怠け者の自分。
僕は手で書く方が安心する。結局は安心したいだけなのだ。

だからあえてそれをしないで声で書いていた近頃。
「やった」感はほぼない。
だって楽だもん。手で書くと10分かかるところを、5分いないで終わる話し言葉。
何故だかわからないけど「楽なこと」を間違いだとしてしまう。
大変じゃないといけない。苦労しないといけない。
脳が勝手にそう主張している。
そういうふうに教わってきた気がする。
そんなことどうでもいい。
自分の癖や主張をどう社会に飲み込まれずに育んでいけるか。
中途半端な社会性を持たずに、いい感じに孤立しながら、
それでいて社会の中で生きる。
人脈はあるといいけど、そんなもの持たずに自分に集中しきっている人に興味を抱く。
自分の中の宇宙を漂ってるなぁこの人。
そんな人の頭の中は気になる。
だからそーゆー人の作品はチェックしてしまう。

卑怯者の僕はそれを見てないフリして自分に取り込もうとする。
模倣犯だ。僕は結局は僕なんかではなく、今まで見てきたものの蓄積に過ぎない。
そう感じる。だから周りの人たちには感謝しかない。
みんなすごい。イカれてる。
本当は何にもしなくていいのに、なんかしてる。
なんか作ってるし、なんか歌ってるし、なんか書いてる。
どうしてそんなことやってるのか掘って掘って掘ってみたらよくわからなかったりする。
でもやってる。
それって不思議だ。頭おかしいのか。
もはや「普通」と言われる人の方がぶっ飛んでるように見えてくる。
今何を書いてるのかすらわからない。
でも手が勝手に動いている。
重要なのは「やること」と自分に言い聞かせている。
そうやって生きるようになってずいぶん時間が流れてた。
結果目の前にはそれによって作られたであろういわゆる「現実」が広がっている。
思考は現実を作らない。行動が現実を作る。
行動こそが思考だと思うようになった。

考えているっぽい時は考えていない。
むしろ何も思考せずに行動に集中している時にことようやく脳が働いている気がする。
何よりもまずやってみること。
この前はいつもはShimon Hoshinoとデュオのライブのところに、
ドラムのよーへーさんとギターの陸が入って4人組になった。
練習する時間なんてなかったけど、まずは「やる」と決めた。
本番の中で細胞分裂を繰り返していくのを感じた。
このやり方じゃないとダメだとも感じた。
動かないと人は死ぬ。
生きていても死んでいるのと同値な状態になる。
しかし動かずとも生きれる。
どちらを取るかは求める映画のシーンによる。
難しく考えなくていい。胸の高鳴る方へただ進めばいいのだ。
この瞬間に身を捧げるという覚悟がなければ
いつまでたってもその意味は理解できない。
まぁ理解など単なる幻想に過ぎないのだが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?