おいしいカヌレの作り方


はじめにお断りです。
①カヌレの作り方は書いていません
②事実とは異なる内容にしていますが、自死についての表現があります。苦手な方はお控えください。


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LINEで家族のグループを作った。メンバーは僕と妻、両親と兄夫婦。

グループへの投稿は主に、僕らと兄夫婦はそれぞれの子供の写真など、両親は出かけた先の景色や食べ物、いつの間にか半分飼っている状態になっていた野良猫の写真など、だ。

今は、前回帰省した時に、兄が突然持参した手作りのめちゃくちゃおいしいカヌレのレシピが共有され、じゃあ皆んなで作ってみようと盛り上がっている。(兄はどちらかというと「カヌレ」というよりは「おはぎ」という感じだ)

自分でもとても驚いている。だってこんな時がくるなんて思わなかったから。

中学生の頃の僕は、同じ部屋だった兄からいじめられるのが怖くて、一晩中トイレにこもって夜が明けるのを待っていたりした。

高校の頃は、両親の関係がとてつもなく悪くて、いつも顔色をうかがって、物音に怯えて過ごしていた。

もちろん、時間が解決した部分はたくさんある。でもそんなだった僕が今こうした状況にいるのは、たぶん大きくは、2種類の命のことがきっかけだと思う。

1つは失ってしまった命と、もう1つは新しく生まれた命だ。(そしてこれを書いているのは最近の世の中の色んな出来事も関係なくはないんだろうと思う)


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最近、母方の祖父が亡くなった。

90歳を過ぎて認知が多少進んでいたようだけど、身体はまだ元気だった。
でも(だからこそ?)、祖父は自分でその最期を決めたのだった。頑固でプライドも高かった祖父だから、こう表現しておこう。

両親と暮らすのを嫌がり施設に入らないと生活が難しかったこと、そのせいで住み慣れた家から離れなければならなかったこと、そして大好きだった畑仕事ができなくなったこと。

おそらくそんなことが理由だったのだと考えられる。

実家に帰ると母はひどく落ち込んでいた。90歳を過ぎて、そんな選択をさせたのは自分のせいだと。なぜ気持ちを分かってあげられなかったのだろうと。(気持ちは分かってあげていたと思うのだけど)

でももう何が本当かは分からない。何も残さずに、祖父は決めてしまったのだから。

聞いた時は悲しみよりも、たぶん怒りの方が強かったと思う。なぜこんなものを置いていくのかと。どうしようもないものを。そんなものを、僕らの、そして母の中に置いていく祖父に。

僕らが思ったよりも認知が進んでいたことなど、色々と話しを聞く中で、当然祖父なりの苦しみがあったのだろうということも理解した。でもそのどうしようもないものは、僕らの中にもう存在してしまっていた。

これが失った命のこと。


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もう1つの命は、僕の子供のことだ。

恥ずかしながら、僕には子供が生まれて初めて見えてきたことがたくさんある。(たぶん他の人はもっと前に見えていることなんだと思うけど)

子供たちのために生きねばという覚悟がある。
続く世代のために生きたいという希望がある。

これまでどうしようもなかった僕は、もはや生かされてしまっている感覚さえすごくある。

そして僕の両親も、兄弟も、同じようなことを思ってこれまで生きてきて、そして生きているんだろうかとか、そんなことを思う毎日なのだ。

子供というトンネルを通して、現在(いま)だけだった自分が、過去だったり、未来だったりにつながっていく、そんな感じがある。

そしてその感じは必ず、あんなに嫌だった家族という存在につながっていった。


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だから僕はLINEでグループを作らなければならなかったのだと思う。

そしてこれから僕らはせっせとおいしいカヌレを作らなければならないのだ。同じレシピだけど、でもきっとそれぞれにどこか違うカヌレを。僕らのそれぞれの生活のために。生きるために。

本当にバカみたいに世の中で言われていることだけど、今、素直に思う。亡くなってしまった人も、生きて思う人のことも、胸のここに手を当てると、確かに共にいるんだということが。

失った命も、生まれた新しい命も、これでもかというくらいに僕らの命を、生を際立たせている。

今は、そのどちらもちゃんと僕らの中にあって、それはどうしようもない形ではなくて、僕らが生きることに使われる、そのためにふさわしい場所に置かれている。




読んでくださって、ありがとうございました。








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