TeXi's『ファジー「ours」』 の感想
作・演出/テヅカアヤノ(会場:STスポット)
家の解体工事中、作業員たちは現場に馴染めない作業員と仲良くなろうとする。やがて彼らの姿に引きこもりの子供を抱える家族がオーバーラップしていく。
男女二元論の解体を描く三部作。女性キャストによる第二部。
男性キャストによる第一部の感想はこちら
第一部は劇場の空間を使い走り回り、巨大なフレームが動き回るダイナミックな演出で家族性の解体を物理的に描いた。
それに対し、会場が狭くなっている今回は家のフレームはそのままでダイナミックな動きが減る代わりにその空間で手数の多い演出を盛り込み、濃密。
元々手数の多い演出が特色の劇団だが、近作よりも狭い空間のためフレームの解体や天井の羽とボールの落下などが煮詰められている。
話の筋は共通で大きく変わった部分はない、なので大まかな感想は第一部感想を見ていただくとして
ただ前半は解体業者としての色よりも、女性のコミュティという色が濃く感じた。キャストは全員喪服のような黒い衣装を着ており、それもまた第一部とは違う雰囲気を与えている。
特別女性らしさを強調しているわけでなく、あくまで同じ話の女性キャスト版といった形。しかし、女優が演じているだけで作品に女性らしさを感じ取ってしまうのは観客側にある二元論を試されているようだ。この作品は、男性であり女性でもある登場人物たちが登場する無性の作品。そこに解体業者という男性が多い業種を描いている、それを上演している女優たちに“女性らしい作品”と感じてしまう要因は何か。
例えば、分かりやすいものだと声。
やはり同じセリフでも高音か低音かで感じ方が変わってくる。ということは演劇における女性らしさは結局音の響きによる観客の思い込みに到着してしまうのではないか。(勿論、主題として女性を描いてる作品とかは別)
ラスト、フレームが解体され壁に立てかけられていくその中で会話していく女優陣。壁には様々な装飾が飾っており、私にはまるで女子高の文化祭の後片付けのように見えた。
人間のホモソーシャルな空間において学校というのは最も強固な発生現場であり、そこにおいて文化祭というのは友達グループの結束あるいは決裂において大きな役割を果たすイベントである。アフタートークで、テヅカさんはその意図はないと言われたのでまぁ単なる思い込みなんだけど、
同性同士のコミュニティ内での力学関係は男女では大きく異なっていると思う。勿論私は女性のコミュニティの事を知らない(もっというと、コミュ障なので男同士のコミュニティもよくわかってない)。
男のコミュニティにおける暴力性が、この上演ではオミットされており(第一部では鬼ごっこという形描かれていた)そこに女性コミュニティの色を感じたのだろうか。
と、どうしてこれが女性的に思えたのかという所ばかり書いていたがそもそもこれの主題はシステムとしての家の解体である。
個人的に、同じ戯曲を男女変えることによってまた別のテーマを感じるのではないかと思ったがメッセージ性部分はあまり違いを感じなかった。(同じ戯曲だから)
これは、男が語っても女が語ってもメッセージの軸はぶれないという意味でもあるのだろうか。
完結編「yours」でメッセージの終着を見守ろう。