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高円寺喫茶のチーズトースト


僕は、東京の隣接県に住んでいるにもかかわらず、よく都内に宿を取って泊まりがけの旅行をしている。そんな大掛かりなことをしているのか、と思われるかもしれない。しかし、はたから見て大したことはしていない。僕は広い公園や庭園が好きなので、主にそこらへんを回っているだけだ。都内には地方と違って公園や庭園がまとまって配置している。朝はそれらの場所を回って、昼には普段入れないようなお店で好きなご飯を食べ、夜には単館系の映画館で珍しいレイトショーを見て、夜遅くに宿に帰る。翌朝、早朝にまた公園に行く。早朝の公園は、空気も空も澄み切っている。ベンチに座りながら物思いに耽っていると、カラスが一羽、鳴きながら空を横切る。とても綺麗な気持ちになれる。そう、いかにして綺麗な気持ちでいられるか、そんな場所を探している。ある意味、好きの嗅覚を磨くための修行のようである。いつも住んでいる街では考えられないようなこと、それは、大通りなどを歩いているときに、ちょっとこっちの路地裏の方が面白そうって気づいて、ふらっと入ってみると、いつもまじまじと見ないような光景が美しくて楽しく見える。その辺に猫が歩いているだけとか、路地の隙間から見える太陽を見るだけとか、などといったような、些細なことも楽しいとか、運がいいとか感じることが出来る。僕がいつも思うのは、大通りは、皆んなが良いって言ってるだけで、移動するためだけのものなのだ、一方、路地裏は自分が面白いと思う能動性が主体となってるから、なんでも面白いと感じるのだという自論である。

毎回違う街に、宿を取った結果、僕的に一番面白かったのは、文京区根津だった。根津は、狭い路地裏が張り巡らされている。個人経営の昔ながらのお店や工房もいたるところにある。小学校の給食をテーマとした内装のかわいいパン屋もあったりする。某有名なカキ氷堂もこの辺にある。今までの人生で、一番熱いと思った銭湯もあった。つまり、大通りから見えるようなありきたりの風景が少ない路地裏がメインの街なのだ。
渋谷もそうだ。渋谷は典型的な飽きさせない街で、どこがスタンダードか分からない。それに若い人ばかりで、皆んな目をキラキラさせながら歩いている。それらの人たちは、自らの意志でここにいたいからいるんだなあと、素晴らしい街だといつも思っている。
広尾なんかも別の観点から面白かった。近くに高級住宅街の麻布とか六本木があるからなのか、路駐の車が全部高級車な凄い光景だった。しかも、どの車もピカピカに磨かれている。ちょっと住宅街に入り込んで歩いてみても、塀が高くてデカい一軒家が沢山建っている。警備会社との契約ロゴシールも貼ってある。そういう人たちって普段何して稼いでいるんだろうなと、よく思ったりもする。
今度、泊まってみたい場所には、阿佐ヶ谷がある。阿佐ヶ谷は、有名な倹約お笑い芸人が住んでいたり、最近流行り中の猫系シンガーソングライターの方が住んでいたり、アルファベットが名前に入る登場人物が出てくる漫画の作者が住んでいた場所で、都心に近いのに家賃が低いから、そのような人たちが住んでいる街なんだと思う。阿佐ヶ谷に住んで、芽が出なかった人は、ずっと阿佐ヶ谷というJR中央線沿いに住み続けて夢を追ってしまうから、その現象を「中央線の呪い」と言うらしい。面白そうだから、今度は中央線の呪いを疑似体験すべく、阿佐ヶ谷に泊まってみたいと思っている。でも阿佐ヶ谷には手頃な値段の宿泊施設は無いので、難しいのではあるが。

「中央線の呪い」シリーズの中には、もちろん高円寺駅も含まれている。高円寺には手頃な値段のゲストハウスがあったので、泊まってみたことがある。場所は、住宅街の中にあった。そして、朝ごはんに喫茶店へ行こうと思い、近くの個人経営の店に入った。その喫茶店のメニューには、チーズたまごトーストというものがあって、それはチーズが夢のようにいっぱいのっていて、トーストを持ち上げると、その夢のような量のチーズがマンガのように伸びるというものだったので、それ目当てに行った。そこの喫茶店の店主は、綺麗なおばあちゃんというような風貌だった。えんじ色系のレースの刺繍が入ったシャツと白いパンツに、薄紫がかったメガネをかけていた。僕は、チーズたまごトーストを注文すると、今の時間はモーニングだから、たまごの無いただのチーズトーストにしておけば半額くらいの値段でコーヒーも飲めるよと教えてくれた。結構親切な言い方で教えてくれたから、無下に断ることも出来ずどうしようかなと考えていると、それが食べたいのね、と言って察してくれる応対の心地よさだった。
客層は、僕以外に2組、1組は近隣に住んでいるであろう若いカップル、同棲とかしてて、モーニングを食べに来たのだろうか、2人が軽装なことから読み取れた。もう1組も近隣に住んでいるであろうおばさま3人だった。席数は最大10人くらいが入れるちょうどいい凝縮度合いで、内装も上品だった。床は赤色の絨毯がしきつめられているため柔らかく、テーブルや食器棚は焦げ茶色した木製のアンティーク調だった。僕は窓辺の2人がけテーブルに案内された。馬蹄形のガラス窓の外からは、青々した朝顔の花と緑色の蔦が覗いていた。窓辺には誰かのアーティストが作った静かなデザインのマグカップが展示し売られていた。完成された“聖域”感のする喫茶店だった。

店の雰囲気に浸っていると、隣のおばさまの会話が耳に入りはじめてきて、とても驚いたことがあった。彼女らは、今までに聞いたこともないような標準語で話していたのである。それは、例えるならば東京で生まれてずっと東京に住んでいた人しか話せないような丁寧な「です・ます」調だった。僕は関西出身だし、あんな綺麗な標準語は喋れないだろうし、色んな地方の人がいた学生だったときを思い出してみても聞いたことのないような丁寧さだった。凄いものきいてしまったなと思っていたら、おばさまたちは、明らかに近所に住む人の噂話を始めたので、雲行きが怪しくなってきた。それ言ってもいいのだろうか、隣のカップルにも聞こえてると思うんだけど…と思っていたら、カップルたちは、そそくさと会計を済ませて出て行ってしまった。僕はといえば、まだチーズトーストもコーヒーも何も来てないから、退散することもできず、1人にしないでくれー!!とカップルを少し恨んだ。その後も噂話は続き、しまいには昨今の感染症問題もあるからだろう、旅行者は東京に来ないでほしいよねー、そういう話題になった。あなたのまさに隣にいる人がそうですよと心の中では語りかけつつ、僕は大きい荷物は宿に置いてきていたから、旅行者とはバレず、矢面にはならなかったものの内心ヒヤヒヤしていた。話しかけられないために、空気になることに努めるばかりであった。
そのうち、また常連のおじさんが入ってきた。店主とも仲良さそうに談笑し、おばさまたちとも常連知り合いのようで、僕の目の前で会話が文字通り飛び交い始めた。
おじさんも綺麗な「です・ます」調で喋っていて、服装も小綺麗なポロシャツだった。
ウチの地元では、じいちゃんばあちゃんは長靴とジャージと手拭いと相場が決まってる。
だから、こんな世界もあるんだなあと面白いし、その一方、僕はどこまで行っても旅行者であり、傍観者であるので、ひとりぼっちさも感じていた。僕もいつか、活き活きとした街で、活き活きとしながら人と関わって生きたい。そのために今は、好きの嗅覚を磨き続けようと思う。
その後、無事提供された、チーズたまごトーストは期待を裏切らない美味しさで、付け合わせのサラダも手作りのドレッシングのため、とても美味しく食べることができた。
常連の方たちはずっと喋っていたので、食べ終わるや否や会計を済ませ、喫茶店から出た。すると、店主だけじゃなく、常連のおばさまおじさま皆んなから、「いってらっしゃい〜」と言ってもらえた。そういう店ルールなのだろうか?そんなこと言われたの、どんな店でもないし、ここに通うことができれば、どんな人生になるだろうか、と朝方の住宅街を歩きながら、もう一つの人生を想像した。
僕は人生をイメージするとき、暗闇の中を歩いてる自分を想像する。時として扉が目の前に現れたりする。それらは、少しだけ隙間が開いていて、光が漏れている。だから、暗い中でも何とか歩き続けることができる。ドアに対して何もアクションを取らなければ通り過ぎてしまったり、急に消えたり、開けようとしても、もう開けられなかったり、一度しか現れないドアもあったりする。ドアがあったことにすら気づかないときもある。今回僕は、高円寺に行ったことによって、また一つドアが増えたのだと思う。真っ暗闇の中、その隙間から光が差している光景が、頭に浮かぶ。ドアノブを手に取って、開くのか、もしくは、あえて開かないのか、選択するのは僕の自由だ。誰にも咎められることはない。もしそのドアを開けなくても、ドアの隙間からの光で、まだ先へ歩き続けることができる。そしてまた、賑やかな声と、光が漏れている次のドアを探し見つけて、これからも生きて行くのだ。

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