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今までずっとためらい続けた言葉。最近しっくりしてきた言葉。『親友』

私には小学校から、もうかれこれ20年以上の付き合いになる友人がいる。

いわゆる『親友』ってやつ。

私が小学校の頃にはシンユウが流行ったものだ。
心の友と書いてシンユウと読む。
信じる友と書いてシンユウと読む。
真の友と書いてシンユウと読む。
神の友と書いてシンユウと読む。
などなど
その当時シンユウを口にする子は沢山いたけど、その中の1人はシンユウってやつを気軽には使えなかった。
その1人っていうのはもちろん私。

シンユウってお互いの承認が必要不可欠になるという、なんだかハードルの高いものの感覚。

かといって『うちらってシンユウだよね?』って言うのはどうも違う気がする。
それって愚かな確認作業。

じゃあ、これはどうだろう。『○○のこと親友だと思ってるよ』…なんだかこれも違う気がする。それって結局同意を求める圧になる。

どうしても、シンユウを押し付けているような気がして…
なんならそういう風に言われてすごく居心地が悪かった記憶があるからさ。シンユウの押売っていうのかな。

自分的シンユウ級の友人がいても、私だけがシンユウだと思ってるのかもしれない。と思うとやっぱり口に出すのが怖かった。これは自己肯定感の低さが生み出す非常にしょうもない事実。わかってる。相手からのみられ方を気にしている証拠。うん、わかってるよ。でも、私と同じ様に考えたことある子達っているでしょ?

だからいつも後出し。
相手が発した『シンユウ』に安心してから、『シンユウ』だとか言ってみる。そんな自信のなさ。私の不安定な『シンユウ』は心のこもらない空洞みたいな言葉。

でも、いつからか私の『シンユウ』にも密度が増してきた。気がする。
シンユウの条件を自分で設けてみたその日から。

私的 『シンユウ』の条件
・今後の人生において相手がどう変わろうと大きな器でまずは受け入れたいと思える人かどうか
・今後の人生において私がどう変わろうとそれを相手に表現していきたいし、理解してほしいと願う欲が生まれる相手かどうか

長い間考えてた、自分にはしっくりこない『シンユウ』とやらを。
だから、今回こうやって定義付けてみた。

もちろん22年間という友情の期間だけをとってみても『シンユウ』といえるだろう。
でも、それじゃあ納得いかない自分がいたのも事実。

人間関係ってリアルタイムだから。
ずっと更新していくものだから。
変化が伴うものだから。
だから『今後の人生において』が私的ポイント。
生きていれば変わらない部分もある一方で、変わってゆく面もある。お互いの関係性も変わるかもしれない。それでも、ドンと構えてそれを待ち遠しく楽しめる関係を『シンユウ』と。
また、変化していく私を怖がらずに表現していきたいと思える相手を『シンユウ』と。
そう呼ぶことにした。そしたら、ためらいも少し晴れて、なんだかしっくり重みのある言葉に成長した。
いままでためらい続けて使わなかった分、取り戻す様に沢山使っていきたい。

『親友よ。今日はなにして遊ぼうか。』



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