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しばらく続けてきた彷徨や旅、その終わりについて。

思うところあって昨年12月末日で早期退職した。
会社から退職の辞令が出たときには、仕事関係の多くの人々が理由を尋ねてきた。みんな何か理由があると思って期待した顔つきだった。

その顔つきがなんとなく得心するような話をしてみる。20分ほど話すと、果たしてみんな成程なーという顔になる。それぞれ納得したようだった。
ばらばらに尋ねてくるから、期待している答えも別々だ。
先方の顔つきに合わせて話していて気づいたのは「そんな面もあるなー、僕が辞めた理由には」ということだった。自分で話しておいてどうかとも思うが、どうやら僕がやめた理由は700くらいあるみたいだ。
僕の知らないところで「あの人はなんで辞めたんだろう」と訝しがってる人がいたら、それが何故なのかを適当に想像して欲しい。たいていそれは当たっている。

会社を辞めたあと。
今年の1月から僕は人や場所と会う旅を始めた。
いま思い返すと「これまで働いてきたことの価値」を見直す何かに出会う旅であり、その場に立って再確認する旅だったみたいだ。


1月に大阪へ行った。
きっかけは前田将多さんのスナワチへ行って寅ちゃんの一糸まとわぬ写真集『What's on Your Mind, Tora-chan?(寅ちゃんは なに考えてるの?)』(ネコノス刊)を買おうと思ったことだった。
それに「会社を辞めた」ことにおいて先輩である前田さんと少し会話がしてみたかった。

前田将多さんの星の里商店街のコピーは大好きだ


大阪へ行くと決めたら、ついでにぜひとも行きたいところがあった。
ひとつは「西武百貨店つかしん店」跡である「グンゼ タウンセンター つかしん」。
もうひとつは「国立民族博物館」。
あと母の葬儀に香典を寄せていただいた従姉妹にも会ってきた。

「つかしん」は僕が地域・大店舗開発に携わった当時、プランニング界でお手本といわれた店舗だった。
僕の入社前に「つかしん」はできあがっていたが、その空間がその後どうなったかは地域・商業施設開設に関わったものとして知っておきたい。
「国立民族博物館」は高校生の頃から行ってみたかった博物館だ。
このふたつの見聞録についてはまた別の項目で書きたいと思う。

西武百貨店つかしん店の面影を探して


3月には東京へ行った。
12月まで勤めていた会社の東京の仲間への報告兼飲み会のほか、三鷹のGO Café & coffee roasteryさんに伺った。
井の頭公園や吉祥寺を歩き「いせや」で焼き鳥齧ったりして、やるせなかった大学生時代の感覚や、公園を一緒に歩いた振られた女の子の記憶を蘇らせたりした。
あ、それはあまり関係なかった。

ひとつ大きかったことがあるとすれば、東京国立博物館の「ポンペイ展」よりも渋谷パルコのほぼ日で開催されていた藤井亮さんの「大嘘博物館」のほうが僕にとってはココロにドシンときたということだ。

むしろ「ポンペイ展」よりも凄みがあった「大嘘博物館」


5月末には水俣へ。
思えば子供の頃から「水俣のこと」は僕の身の回りに普通にあった。
中高生の頃の家は熊本地方裁判所の近くで、そのあたりがよく大変な騒ぎになっていた。思えばあの騒然とした中にユージン・スミス氏もいたということだ。
大学のゼミでも水俣のことを学んだし、水俣から来ていただいた一人芝居の方の劇「苦海浄土」を学内で体験したりもした。
大学を卒業して東京で仕事しているときは水俣と関わりはなかった。
だが1995年に熊本に帰ったらいきなり仕事で接することになった。
それから2019年まで、熊本で仕事している間になんども水俣のPRに携わることになった。


そんなある日、水俣の皆さんと話している間にどうしてもやりたいことが出てきた。
それが「水俣で魚を釣って、食べる」だった。
数年後、会社を辞めて自分の時間とアシができたことでやっと叶えることができた。

水俣の湯の児の海岸にて。向こう側は天草諸島

このときの釣果はキス5尾。
水俣の事象は日本の近代と資本主義の大きな曲がり角だ。
新しい資本主義とか、メディアと風評加害などについてキスを捌きながら考える。
これについてもまた別の機会に別項でまとめる予定だ。


7月は2回東京へ。

一度目の東京行ではいろいろあったけど、中でも大学生時代からの先輩お二人との会食は緊張した。
お二人とも僕が12月まで勤めていた会社グループの先輩。
早めに会社を辞めて、お一人はブランドを領域とするクリエイティブブティックを設立。もう一人は大きな会社の経営者。
学生時代からのご恩もあってたぶん一生頭が上がらない。
そんな先輩方から「来年も報告にしに来い」と言葉をいただいた。
重たいけれどもありがたい言葉。

二度目の東京行は「ひろのぶと株式会社」の株主ミーティングに参加するのが主な目的。
その前後には写真展、美術展、製品展示、コンセプトショップのアートコラボ展示などを体験。

ちょいとあいた時間で訪れたのは母校の大学。
この大学で主に学んだのは「日本の近代とはなんだったのか」ということ。
立教通りの北側キャンパスにある5号館の栗原彬ゼミでみっちりと取り組んだ。フーコー、イリイチ、竹内敏晴、岡並木…イヤというほどいろんな本を読んだ。
松下竜一の「砦に拠る」を読んで熊本・大分県境の下筌ダムまで行って調べてきたこともある。
断片的にさまざまな事象はわかったけれど、むしろ僕の中では混迷が深まった。で、結局「近代化っていったい何なの?」と頭の中がグルグルしたままで卒業した。

5号館側と違って、いわゆる立教大らしい風景が広がる立教通り南側のキャンパス。
1号館の二階で受けたのが志津野知文先生の心理学特殊講義。
広告会社のマーケティングディレクターだった志津野先生からは世の中の読み解き方や、その際のフレームなどを教わった。
土曜日の午前中2コマ目の講義だった。
他学部からの参加だった僕は、なぜかよくお昼ご飯を奢っていただいたが、その昼食の間のお話がまた面白かった。
この先生との出会いが広告会社のマーケティングプラナーへの道を開くことになった。
1号館が見えるベンチに座っているとそのときの窓からの木々を通した光や古い建物の木の匂い、先生の少し甲高い声をまざまざと思い出す。

そうして飛び込んだマーケティングの世界で35年ほど。プランニングでさまざまな事象に関われた幸せな時間だった。

いままでやってきて気がついた。
その35年を支えた思考や行動の様式はこの学び舎で得たものだった。
栗原彬先生のもとで読み取るセンスが知らず磨かれた近代と資本主義についての嗅覚。
志津野先生から教わったプランナーとしての企画にあたる前に必要な仕草や流儀。

そして水俣のしごとに携わったことを契機として、あんなにわからなかった近代・近代化についても把握することができていることに気づく。

志津野先生から教わったマーケティングの基礎的フレームの一つに、人の意思決定の構造がある。
日本人の場合は脳の中に蓄積され稼働している「縄文期・弥生期から封建時代まで・近代化時代・そして日々の判断に支配される思考の層」の価値観が自分の意志決定に作用してくる。

人々の意思決定の方向性を測るために、僕は日々のプランニングのなかで大学時代に収拾がつかなかった「近代」を含め、人々の思考や社会を現実の現象面から理解する姿勢をおのずととっていたのだ。
そんなことを藤棚の下のベンチで、むかし学んだ教室を見上げながら考えた

立教大学1号館 あの2階の部屋で学んだ

もしかしたらこれからやるべきことは、そうして掴んだ姿勢や蓄積した知識をベースにした新しい仕組みづくりではないか。
そうして面白いことや楽しいことをチームの仲間と一緒に実現していくことを考えるとワクワクしてきた。
涼やかな風が頬を撫でて流れていった。


次の仕事、この次の自分の姿を求める彷徨はこの立教の前庭で終わった。
彷徨は終わったが、方向は定まった。
「ひとのぶと株式会社」の株主ミーティングが始まる1時間ほど前のことだった。


今後の業務内容、やりかた、体制などが決まったら、また報告します。

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