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教わった言葉が時代を得て僕の中で有機化合する。

三つの「まい」という言葉がある。
むろん僕が作った言葉ではない。
日本人が持っている生活感覚だと説明された。
教えていただいたのは僕のnote1回目投稿に登場した大学時代の恩師・志津野知文さん。
通っていた大学の文学部の心理学特殊講義の講師で、当時は博報堂でマーケティングディレクターをされていた。

3つの「まい」とは、
 遅れまい。
 外れまい。
 田舎と思われまい。
の「まい」だ。

教わったのは1985年だったと思う。
1984年に山崎正和さんの「柔らかい個人主義の誕生」が話題を呼び、1985年に電通総研が「小衆」を、博報堂生活総研が「分衆」を発表した時代。

抜き去り難い日本人の生活心情、消費心理のひとつとして教わった。
同時に教わったものに日本人の三層の精神構造というのもあったな。

聞いたときは三つの「まい」、なかなか上手いことをいうと思った。
だが。
そのあと、とくに「田舎と思われまい」については僕が就職したあたりから流れが変わっていった。

1988年、竹下内閣によってふるさと創生事業開始。
地方がにわかに持ち上げられ始めた。

1989年に博報堂総研、「オイコット・ライフ−『非東京的』生活の魅力」を発表。

僕も東京にあって沖縄など地方の仕事が増えてきた。
セゾングループの沖縄事業に係るものが多かった。
要は東京の企業が地方の生活開発を行うというものだ。

そんな地方の仕事が面白くて僕は九州に転職することにしたのだ。
で、転職はしたものの、最初はとても悩むことになった。

1996年に「東京卒業〈山口県編〉」が出版され話題に。
1998年には国土の均衡ある発展を目的とする第5次全国総合開発計画「21世紀の国土のグランドデザイン −地域の自立の促進と美しい国土の創造−」が発表された。

僕が熊本に戻ってからも地方の価値を評価する風潮が東京から追いかけてくる。 でも、持ち上げられているはずの地方にあって、僕はなんとも気持ちが悪かった。

だって、交付金や助成金は従来通り東京からやってくる。
その構造は変わらない。

東京を卒業しようが、TOKYOを逆読みしてOYKOTと言おうが、東京vs鄙のどこか、という対立構図なのだ。
東京の呪縛から全く逃れていない。

そうして20年が過ぎた。
三つの「まい」の熱烈な担い手である団塊世代が、生産年齢を卒業していった。
高度成長時代には姿形が全くなかったWebが全国・個々人に至るまで張り巡らされ、地方にあっても直接海外の誰かとビジネスを始めたり友達になったりできるようになった。

そうなるとどうなるか。
熊本も東京もNYも台南も、どこでも同じ感じになるのだ。
ヘタすると、Twitterのダイレクトメッセージで「初めまして」と見知らぬ人につなぎをつけ、ビジネスへ繋げることさえできる。
地域や個人間に上下はない。

これ、新しい時代がやっときたという感じ。

東京に本社があって地方に末端があって、というビジネス構造自体が古びたものになっていく。
統制力よりも機動力やつながり力。

やっと本質的な意味で地方の時代がやってきたという感じだ。
そして、柔らかな個人の時代がやってきたという感じ。

「田舎と思われまい」という感覚は、熊本県内の若者を見る限りもうほとんどなくなった。

それと同時に「遅れまい」「外れまい」も、薄れてきた(一部例外あり)。
僕らより下の世代にとって、田舎を蔑視する感覚とかとか流行りを気にするということは格好悪いことになってきたのかもしれない。
まだまだ僕らの上の世代以上には残っているのかもしれないけれど。

時代が変わるのではなく、社会感覚が変わっていくのだね。

かつて戦国時代から江戸時代初期までの国家建築の時代は中央集権的な国づくりだった。そのあと、平和な時代になって各藩で文化が咲き乱れる。そしてその各藩の知と生産力の蓄積が、明治の改革の新たなエネルギー元となった。

いまコロナ禍で時代の綱渡りを僕らは体験している。けれど、なんとか、新たな令和の平和を取り戻し、地域ごとの文化繚乱を形にしていきたいものだ。

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