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〈日記〉朗読はじめました日記【ともや】


5月7日(日) 

前々から朗読をしてみたかった。最近、日本語の言い回しや表現、音そのものに魅力を感じていて、「声に出して読んでみたい」と思っていた。それに自分の滑舌が悪いことを自覚していたので、その改善のためにも朗読はよい練習になるのでは、と考えていたのだ。

今日は一日中雨で、特別いくところもすることもない。さっそく鴨長明の『方丈記』で朗読をしてみる。日本三大随筆のひとつで、現代にも残る無常感と世間への憂を描いた名エッセイ。せっかくなので、自分の朗読する声をアプリで録音する。

方丈記。鴨長明の無常観がすごく好き。

10分ほど録音し、聴き返した自分の朗読に、絶望する。前日にYouTubeで、『方丈記』のプロの朗読を聴いていたのもあってか、ものすごくド下手に感じた。それに自分の声を聴くというのは、この歳になってもあまり慣れない。

それでも我慢して聴いていると、少しずつ羞恥心がなくなっていった。自分の朗読を冷静に聴くことできるようになって、なんとなく良いところ、悪いところが指摘できるようになった。悪いところはたくさんあるのだが、早急に改善すべき点として「ら行」の発音だろうと思われた。

『方丈記』には、「~られるのだろう」とか「~しまわれた」のようにら行が沢山登場する。自分の朗読を聴いていると「~らえうのだろう」とか「~しまわえた」のように、うまく「ら行」が発音できていなかった。現代は便利なもので、YouTubeで【ら行 発音】と調べると、ら行を矯正するための動画が出てくる。いくつかの動画を見たところ、私がら行が下手なのは①舌を巻いてしまっている、②舌の筋力が足りない からだと思えた。

①については、本来ら行は前歯に極めて近い上顎に舌を当てて発音するのだが、私のように下手な人は、それよりもさらに後ろに舌を当てて巻くように発音するのだという。それは英語でいうとRの発音で、日本語のら行はLの発音らしい。Rの“ら”は、どうしてもくぐもって聞こえてしまう。私の舌は、どうやら外国圏にいたらしい。子どもの頃、外国人のモノマネをしまくっていたのが仇になった。

もうひとつは筋力不足。閉口したときに上顎にピタっと隙間なく舌がくっついていないと、筋力が不足しているらしい。私はまさにそれで、口を閉じた時に上顎と舌の間に空間ができていた。舌筋力トレーニングをしなければ。他にも「ら行」を交えた文章読みの練習など、さまざまな方法を紹介してくれていた。動画を見ながら、ら行を矯正し、朗読の変化を楽しんでいきたい。


5月15日(月)

我ながら素晴らしいことを思いついた。最近、滑舌改善・顔面筋強化・趣味の一環として朗読練習をひっそりとはじめたのだが、そうだ好きな本を朗読するのをスマホに録音して聴き返せば、ちょっと下手くそなオーディオブックじゃん。耳汚しな【聞く読書】ができるじゃん、と思いついた。これまでは『方丈記』をずっと往復していたのだが(数十ページしかないので、往復するにはちょうどよかったのだ)、どうせなら好きな本を朗読&録音しよう! と思い立って、永井玲衣さんの『水中の哲学者たち』を選んだ。

『水中の哲学者たち』は、哲学対話をもとにしたエッセイ集。つい最近、哲学対話に参加したのもあるけれど、これを読んだときに悩むことを許された感覚があって、ずっと心に残っていた。早速はじめに、と一つ目のエッセイをスマホの前で朗読し、録音する。

水中の哲学者たち。悩むことを許してくれる一冊。

iPhoneのボイスメモは、周りの雑音を消して再生してくれる機能があって良い。夜、一人で洗濯物を干すときに、AirPodsで録音した音声を再生した。相変わらず滑舌は悪く、何度も噛むし、言い淀んだり、変なイントネーションになっていたり、抑揚はないのだけれど、内容はしっかりと聞き取れた。セルフオーディオブック、いいなあ。何より、以前よりも「ら行」が改善されている気がする(たくさん練習した)。聞き取りやすくなっている。そうなると次の音が気になる。次は「な行」が変だ。


5月17日(水)

あいも変わらず朗読練習を続けている。『水中の哲学者たち』のエッセイを毎日ひとつずつ朗読し、それを録音していっている。声に出して読むと、ことさらこの方の文章のすごさ、エッセイのうまさみたいなのが垣間見える。分かっているようで分からない、その暫定的なものを、一応は分かる形で文章に置いていく感じ。すごい。

相変わらず「ら行」と「な行」は苦手だ。朗読をイヤホンで聞き返すと、どうしようもない滑舌に、もう羞恥心を通り越して辟易する。だけど、たまに。聴いていると本当にたまに、ピカリと光る朗読もあって自分で驚く。そんなとき、洗濯物を干す手を止めて耳に集中する。ピカリと光った朗読はもう過ぎ去って、耳に残るのはやはり聞き取りにくい「ら行」と「な行」だけ。それでもときたま光るようになった。

光った朗読には、何があるのだろう。自分で思い返してみても、特別工夫したことはない。いつも通りに滑舌に気をつけていただけである。だけど、思い返せば心を込めて読んでいた箇所がある。しっかりと、この文章が音を出したらこんな音だろうな、ということを意識して発声したいくつかの瞬間がある。朗読に心を込めるのは、滑舌が良くなってからだ、と自分では思っていたのだけれど、もしかすると順序が逆なのかもしれない。その文章が求める音を意識したとき、自然と口と舌が動いてくれるのかもしれない。明日からの練習は、それを意識してみる。誰かにも聞いてもらえる日がくればいいな、と思う。

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