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イタリアのインテリアデザイン理論(上)

 本noteでは、研究の結果、解明できたイタリアのインテリアデザイン理論を紹介しましょう。(記述内容は、『商品開発・管理研究』Vol.18(2),pp.44-66の拙稿「イタリアのインテリアデザイン理論ーキッチン(cucina)および浴室(bagno)との関連で―」に基づいています)。

1.はじめに

 インテリア部門が牽引したイタリアの戦後の経済成長の背景には、友人等を自宅に招いて自分テイストのインテリアを客人に披露するという暮らし方があり、屋内で人々が着用したアルマーニのジャケットなどのミラノの既製服(モーダ・プロンタ)は、照明を含む室内のインテリアとよくマッチしました。他方、日本の戦後の経済成長は、内装は同一で外観だけ異なる郊外の一戸建てに住んで、週末は家族でファミリーカーに乗ってドライブするというものでした―室内には当時勢いのあった家電製品が置かれていました。言い換えれば、ファミリーカーと家電を保有することが豊かな暮らしであると錯覚し、その錯覚は、「高級外車・時計・ブランド品の洋服を自慢する一方で、自分の家は自慢しない」現在の富裕な日本人のライフスタイルに至るまで続いているといえるでしょう。要するに日本の経済成長は、内実を欠いていました―その理由として、戦後復興の際、港湾や道路などの社会インフラの整備が優先され、一般家屋については資力の乏しいサラリーマンに住宅ローンを組ませたという点が挙げられます。
 かくして、転倒(倒錯)したライフスタイルに修正を加えて自分の家を自慢できるように、良い暮らしをもたらすインテリアデザインの理論を解明したいところです―良い暮らしを送りつつ、個々人の尊厳が満たされた状態に人は幸せを感じますので。生活大国イタリアでは、芸術作品のような工業製品を普段から用いる良い暮らしを送っており、そういった暮らしでは、室内の様々な眺めを楽しみつつ、芸術作品としての工業製品(日用品)に常日頃触れることができるという美的な体験に満ちています。芸術作品としての工業製品に囲まれた暮らしが幸福だと言えるのは、芸術作品には「今」・「ここに」しかない1回限りの特有の輝き(アウラ)があるため、産業社会の中で生きる自分の生にも一回限りの輝きがあることを再確認できるからであり、もう一つの理由は、芸術作品が孕む、ユートピアを感じさせるような彼岸にあるリアルなもの―ラカン派精神分析において不可能なもの或いは現実的なものと呼ばれるもの―に触れることで、生を活性化(リフレッシュ)する効果を得られるからです。なお、芸術作品としての工業製品に囲まれた暮らしにおいて実現される「幸福」は、ギリシャ語のエウダイモニア(eudaemonia)であって、個人が感じる主観的なものではなく、存在の称賛すべき望ましい状態です(いわば客観的な幸福)。良い暮らしに加えて個々人の尊厳が満たされて初めて、主観的な幸福の次元が開かれます。

2.イタリアのインテリアデザイン理論(基本図式)

 室内全体を設計の対象とするインテリアデザインの手法には、個々のモノをデザインするプロダクトデザインの手法とも建築プロジェクトとも異なる固有の論理があり、それを示したのが図1です(筆者作成)。

図1

 デ・フスコ(De Fusco)によれば、無際限に広がる自然な空間を区切って、人為的に居住可能な箱(および箱の外観の眺め)を作るまでが建築プロジェクトの領域であり、インテリアデザインの方は、そうして作られた居住可能な箱の内部に詩情溢れる家具等のオブジェを設置すると同時に、その箱の内観(天井・壁・床等)の美しい眺めも楽しめるようにする営みです。図1の“動かせない⇔動かせる”の横軸は、全ての家具が、下から何かを支える(sostenitore)系列の家具と、何かを収納する(contenitore)系列の家具に分かれるとするプラーツの分類に従っています。イタリア語で家具を示す“mobile”は動かせるモノという意味であり、動かせる家具としての椅子やテーブルは、下から何かを支える系列に属し、そのモデルは、軽快で優雅な馬です―古代ギリシャの椅子klismósの脚先は、神性を帯びた馬の蹄を表しています。そしてこの系列の家具は、コンセプトに対して“かたち”を与える(conformare)ことによって創られます(ピノキオがその典型であり、かたちを与えることは命を吹き込むこと―plasmare―と同義です)。世界を形成するモノのかたち(フォルム)のクオリティは、「私たちの工業システムがかたちとしてより良い世界を創るのか、あるいは失敗する運命にあるのかという事柄にかかわる政治的な大問題」であるので、コンセプトに対して与えられるかたちは、クオリティの高い美しいかたちである必要があります。他方、壁(棚)/床/天井等は、動かせない(immobile)系列に属し、表情(表現;rappresentare)を考えねばなりません。この系列の家具は、何かを収納する(contenitore)箱のようなモノであり、そのモデルは住居(casa)です―天井には何かを格納する機能はないけれども、もっぱら見て楽しむものとしての天井(eg.冒頭の図)には、たとえば“吊り天井”といった装飾を施すことで表情豊かにすることができます。さらに、床も、歩き回るにつれて、多少の起伏を伴う幾何学上のタイルから成る床を眺めて楽しめるようであった方がよいのです。「戸棚のなかには無限の無秩序から家をまもる秩序の中心がいきている」とG.バシュラールは述べており、カラフルな収納棚の機能を備えた壁があれば、整理整頓された秩序を家にもたらしつつ、インテリアとしても映える―そういった棚にしまい込まれた衣装は、季節の移り変わりと家族の歴史を刻んでいるのです。
 壁(棚)/床/天井等は、見て楽しめるように詩情を感じさせるようにしておけば、どのように家具を替えても、常に美しく秩序を保っているのであり、ポンティは、そういった表情のある壁(棚)/床/天井等を備えた空間を、居室(カメラ;camera)ではなく部屋(スタンツァ;stanza)と呼んでいます。ポンティは、また、何かを支える力が強い大理石等の石の床には大理石の壁が似合う一方で、そういった石の床に家具等を置くとそれらの家具は横たわっているようであり、さらにそういった石の床は明るいので天井の方は暗くすべきだとしています(天井の方が明るくて床が暗い場合もあります)―黒い光沢のある床は、湖のようであり、我々はそういった湖に溺れないようにダンスしたくなる、とも述べています(そういった床にモノを置くと浮かんでいるように見えるとのことです)。かくして寝室でダンスしたくなるのは不適切なので、寝室には黒い光沢のある床は似つかわしくありません。そして、床が木材なら木材や布地でできた壁が求められ、敷物の床には布地や紙の壁が似合い、マジョリカ焼き等から成る色彩のある床は、“草原”なので、明るい天井、朝の空を求めるとも述べています―要するにポンティは、素材および表現に応じた“壁(棚)⇔床⇔天井”間の相応しい対応関係を考えています

 もう少し付け加えると、フレスコ画が描かれた壁に似合うのは、しっくい塗りの天井ではなく何かが描かれた木材の天井であり、他方、床の方は、石の床が望ましく、木の床や磨かれた床を用いるべきではない、としています。言い換えれば、四方の壁全部にフレスコ画が描かれ、木材でできた天井にも何かが描かれて初めて、壁画の部屋(スタンツァ)というのは成立するのであって、天井がしっくい塗りだと重苦しく感じられるということです。なお、壁に直接フレスコ画を描くのと、壁に絵画を掛けることは区別されます。掛けられた絵画は、動かせるタイプの家具であり、部屋(スタンツァ)を規定しません。四方天井が壁画で囲まれた典型的な部屋(スタンツァ)は、バチカンのシスティーナ礼拝堂でしょうか。なお、壁が視界を遮るなら、壁をぶち抜いてインテリアとしての眺めの良さを優先させるべきであり、ポンティが4人家族向けにポンティが設計した一つの大きな部屋にその事例が見てとれます(以下の図2)。

図22

3.メード・イン・イタリーを成立させた設計思想


 さて、図1の“自然/生命の美しいかたちを備えた家具⇔自然とは無関係な幾何学上の美しいかたちを備えた家具”の縦軸は、どちらもイタリアンデザインの反合理主義的な設計思想を反映しています。量産を求める産業の圧力に屈し、産業と妥協した(ウルム造形大学を率いた)T.マルドナードとは異なり、デザインにおいて詩情を確保し、機能や性能一辺倒ではない反合理主義的な設計思想を貫くイタリアンデザインは、産業との妥協を排したウィリアム・モリスの精神を引き継いでいるとも言えるでしょう。詩情を感じさせる日用品をデザインするには、(1)人間に似ている(antropomorfismo;擬人的なデザイン)、(2)動物に似ている(zoo-morfismo;擬動物的なデザイン)、(3)建築尺度の変更(C.スカルパのようにメートル法ではなく古代の寸法を採用したり、G.ポンティのように大理石を裁断したり、壁同士を連結させる場合に直角ではない角度を採用)、(4)無意識を連想させる(ガヴィーナ社の家具のようにこの世のものではない雰囲気を出す)、といった手法があり、絵心があるイタリアの建築家(デザイナー)やアーティストはこういった手法を採用してきました。

 かくして、メード・イン・イタリーを成立させたコインの表面は、デザイン起業家―模型制作者(モデラ―)―デザイナーの三者間協業であり、他方、コインの裏面は、図1の縦軸である“詩情重視の反合理主義的な設計思想”です(意味のイノベーション理論は、メード・イン・イタリーの成立とは直接関係ありません)。とりわけ重要であるのが、“自然/生命の美しいかたちを備えた家具”の代表例として挙げられるリバティ様式であり、元々この様式は、20世紀初頭のイタリアにおいて、絵画・ポスター・雑誌のみならず、家具やインテリアそしてファッションにまで広まったという点において、生活そのものを芸術の対象とした全体的な様式美でした。アール・ヌーボーあるいはユーゲント・シュティールとも呼ばれるリバティ様式は、貴族や僧侶といった支配層の文化であるラグジュアリーとは対立する、ブルジョワジーが初めて得た総合的かつ洗練された流麗な様式美であり、その特徴として、花や動物といった自然界にあるモノのテーマ、日本の芸術に由来するモチーフ、曲線美(アラベスク模様や渦/螺旋)、均整の取れた左右対称を避け音楽のリズムを探求、共感を目的として“機敏/弾力性/軽快さ/若さ/楽天主義の感覚”を伝える、といったことが挙げられます。デザイン理論化のG.C.Arganによると、フランス王室お抱えの画家らによる装飾モチーフや、ルイ様式の椅子といったラグジュアリーなものは、社会を規制するための気取った要素であり、それらをインテリアとして受け入れることは、ユーザー側での受動的な服属を意味するのでー政治的服属にも繋がってしまうー、自らのテイストとして受け入れるならリバティの方が望ましい、ということになります(要するに、リバティを全面的に受容したイタリアと、フランス発のラグジュアリーは何の関係もありません)。
 “イタリアの家具のための新たなデザイン(nuovi disegni per il mobile italiano)”というカネッラとグレゴッティが主催した1960年の展示会は、刷新された新たなリバティ様式(抽象化/簡素化されたネオリバティ)を提案するものであり、G.アウレンティのスガルスルなどの曲線美を備えた椅子や、U.リーバによる藤性のデッキチェアなどがその代表例です。R.バンハム(Banham)は、近代建築からの子供じみた退行を意味するとしてこのネオリバティを糾弾したけれども、B.ゼーヴィによれば、その意図はバウハウスに則って合理主義の乗り越えを目指すものであり、リバティの復活ではないとしています―とはいえリバティには進化形があるとも述べています。照明器具を含むインテリアとミラノの既製服とが互いに参照しながら発展していった、メード・イン・イタリーに基づくその後のイタリアの経済成長を鑑みるならば、ネオリバティを提案した1960年の展示会の重要性は明らかであり、詩情重視の反合理主義的な設計思想の核はネオリバティであるといえるでしょう。

4.イタリアのインテリアデザイン理論ー室内の様々な眺めが楽しめるように、室内の景観を創り出す

 さて、インテリアデザインの際には、図1を基本としつつも“室内の眺め”も創り出さなければなりません。デザインとは、クオリティの高い美しいかたちであるがゆえに目立つモノと、視界に入って来なくてよいので隠さなければいけないモノとに分かれた、メリハリの効いた眺めを創ることです。言い換えれば、素材に対して人目を惹く“かたち”が与えられると、それ以外の要素は背景に退いて目立たたなくなるのであり、これがインフォメーション(in-formare)の意味です。眼に入って来るモノをコントロールするという意味で、デザインは、いわば第二の自然を創る営みなのです。自動車のダッシュボードを見ている時間が長ければ、ダッシュボードの眺めを改善した方が、運転時のQOLの上昇に繋がるのであり、一般に、あるところを眺めている時間が長ければ、その眺めは改善されるべきです。同様に、椅子に座っている時間が長ければ、その座り心地は良い方が、QOLを上昇させることができます―そのモノと触れている時間が長いならば、そのモノのクオリティを上昇させた方が、QOLは高くなります。
 インテリアデザインの場合、室内を歩くにつれて、あるいは階段を登ったり降りたりするにつれて、様々な眺めが現れ、そういった眺めを楽しめるようにすることが肝要です―言ってみるならば小堀遠州が行った作庭術を室内で実践するのです。別様に言えば、「訪問者が移動するごとに、連続して新しい透視図的景観が現れる」ようにするのであり、そういった室内の様々な眺めを楽しめる事例として、G.ポンティがデザインしたネマジー(Nemazee)邸やプランチャート(Planchart)邸があります(図3)。

図3

 図3では、様々な方向を眺める訪問者の視線が書き込まれると同時に、訪問者同士でアイコンタクトが生起するようにも配慮されています―つまり、視線同士が出会ってドラマが始まるようにデザインされています。たとえば、図3右のプランチャート邸の階段の踊り場では、男女が出会う様子が描かれています。イタリアンデザインでは、室内を含めた世界は劇場(舞台)であり、「出来事がなければ劇場も建築もありえない」とA.ロッシも述べるように、様々な出会い(=出来事)を可能にする装置として、階段は英雄的な性質を持っています。1階と2階とで舞台の切り替えを行いつつ、役者が颯爽と登場することを可能にする舞台の垂れ幕(quinta)同様の機能を階段は持つのであって、エレベーターはこういった階段の持つ機能を台無しにしてしまいます。あるいはまた、上から見て深い螺旋階段の下には何か潜んでいるかもしれず、また、足音が響くという点で階段はファンタジーを掻き立てるものであり、階段全体は、別れや到着や逃亡といったことが起きる“詩的な部屋(スタンツァ)”だと、とポンティは述べていますー確かに階段には、床・壁・天井といったStanzaを規定する要素があります。

5.終わりに

 いかがでしたでしょうか?まさかのちゃぶ台返し、どんでん返しで、室内に置かれるカッシーナ等のソファがインテリアの主役なのではなく、壁・床・天井の方が重要であるとは目から鱗ですーついつい、そういう眼で室内を眺めてしまいます。家具に頼るのは居室(camera)で、部屋(stanza)は家具に頼らないとも言えます。後半では、キッチンおよび浴室のデザインプロジェクトを取り上げましょう。

図の出典、冒頭:https://www.idfdesign.it/decorazioni-pareti-boiseries-classiche-di-lusso/controsoffitto-a-cassettoni-cambridge.htm、図2:Bistagnino(2010),p.62、図3左:https://ja.livingorganicnews.com/razing-its-modernist-buildings-iran-is-erasing-its-past-western-influence-691375、右:Green,K.E.著・岸本雄二訳(2011)『ジオ・ポンティとカルロ・モリーノ』鹿島出版会.p.214、図2:Bistagnino(2010),Disegno-Design. Introduzione alla cultura della rappresentazione,FrancoAngeli,p.62


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