子供と大人について
子供と大人について
成人の日や最近感じた事をきっかけに、今回は子供と大人について書きたいと思う。
この国では、成人を迎えた人達は社会的に大人扱いされるようになる。社会的に線引きをする為に、生まれてから20年の年月が経った人達に強制的に与えられる責任や義務や役割、法律としての成人。
しかし、社会的に成人であるからといって、それは人として成熟した大人であるということでは一切ない。
(個人的な経験において)学生生活を終え、社会人としての人生を歩んでいる中で、人として成熟した大人は殆どおらず、少数だと感じている。
仕事ができる、できないを抜きにしても、尊敬できる大人が全くと言っていいほどいないように思う。
こういった事を感じているのはどうやら自分だけではなく、(あくまでも自分の周りだけかもしれないが)同じ事を感じている人が多いことが最近分かった。
日本社会の大人たち
尊敬できる大人が少ない事は現日本社会に"眼が死んでいる人"が多いという要因の一つではないかとも思う。
最近、学生時代に読んだ伊坂幸太郎の『チルドレン』という小説で主人公の放つセリフが心に強く蘇ってきた。
「大人が恰好よければ、子供はぐれねえんだよ」
読んだ時にすぐピンときたわけではなかったが、なぜかずっと心に残っており、最近になってこのセリフが改めて自分の心に響き、深く共感するようになった。
「恰好いい」大人がどの様な人かはそれぞれ違うと思うが、とにかく大事な事は「恰好いい」と思える憧れの存在を持つ事。
憧れの存在を持つ事で、人はその人の様になりたいと思い、成長する為の努力を重ねていけるのだと思う。
自分が考える「恰好いい」大人の条件の1つに「常に学び続ける人」、言い換えれば「自修できる人」がある。
誰かから教えを受けるのではなく(教えを受けるのも大事だが)、自ら学ぶ事ができる人。
これは必ずしも座学での勉強だけの事を言っている訳ではなく、変化していく社会を知り、次に繋げるため勉強や柔軟性のある意識、思考の問題である。
ここで戦前の天王寺師範学校(現:大阪教育大学)の専攻科講師を勤めていた哲学者であり教育者の森信三が「自修」できる人、できない人を茶碗の向きで例えている文を紹介する。
それはちょうど、伏せられた茶碗に、上から水をかけるようなもので、なるほど水をかけた当座はしばらく湿りもするが、たちまちのうちに、また干上がってしまうんです。ところが、茶碗を仰向けにしたらどうでしょう。水を入れるごとに、水はしだいにふえていく事でしょう。
この本で著者は、茶碗を仰向けにするという事は、「心の態度を根本からひっくり返す」事と言っている。個人的な解釈では、学ぶ姿勢と柔軟な思考を持つ事と捉えている。
子供と社会は大人の映し鏡
そうして成長を重ねた人は、性別、年齢、国籍、職業や貧富の差などとは関係なく魅力的で憧れの対象となるはずだ。
また、「恰好悪い」大人に出会った時にも反面教師として活かし、絶対に自分が同じ様にならない為にする事も成長にとって必要な事であると思う。
この様に、人としての成熟度の観点で子供から大人に成長するには、社会的な環境が大きく関わってくるわけで、その社会を作っているのは常に「大人」達である。
その大人達の作った社会の映し鏡が現代社会。そう考えると「眼が死んでいる人」が多いのは、今の社会を作ってきた大人達の責任でもあるし、これからそうならない様に変えていけるのも、また大人達である。
大人達、またはメディアが作り上げた「ゆとり世代」や「悟り世代」などは、まさにそれを言っている大人達の映し鏡であり責任であるはずなのに、それを子供の責任にすり替えており、大人達の責任逃れで言い訳じみた言葉であるように感じる。
大人になる責任
ここではっきりしておきたいのは、自分が「ゆとり世代」だとかのレッテルを貼られているのを大人の所為だと言いたいのではなく、今までのこういった悪しき流れは自分達で変えていき、もっと良い社会にしていきたいという事である。(もちろん、良い流れは残しつつ)
そんな「ゆとり世代」も30歳手前にもなると、結婚をして子供を持つ友人もかなり増えてきて、その流れからも最近特にこう思う様になった。
その中で自分は何ができるのか。自分が思う「恰好いい」大人になれるのか。常に、考えながら生きていたいし、より良い社会を自分達の子供の世代に残す責任があると強く感じている。
より良い社会を残す責任の中で最も大きな問題の1つである気候変動。
97%の気候学者達や世界各国のすべての国立科学アカデミーの言う事を無視して、資本主義による目前の自分達の利益を優先して今の世界を作ってきた権力者達(気候変動と向き合わない為の言い訳ばかりの大人達)は浅はかで未熟だと思うし、それに異を唱えるグレタ・トゥーンベリさんの様な少女はすでに成熟した大人だと思う。
もしも、現在の資本主義社会を作ってきた権力者達が茶碗を仰向けにして、気候学者達の意見に耳を貸していたら、他国への空爆などの様なバカげた人類の内輪揉めなど起こりえないのでは。
もしも、現代社会を作ってきた大人達が魅力的な大人が多くて、眼がイキイキとした人で溢れる社会であったら、自殺や鬱なんてものはもっと少ないのでは。
とも思うが、そんな「もしも」は存在しない。
だからこそ、今の大人達、これから大人になる人達にはその「もしも」を実現できる人になって欲しいし、自分自身もそうならなければいけないと思う様な2020年の年明けでした。
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