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意味が追いついてくるまで

 このnoteに毎日何かしらを投稿することを自らに課しており、何故そんなことを課しているのかといえば、元は自らの文章力向上のためにそうしていたように思うのだが、いまや、書かないと落ち着かないから書いているだけになってきた気がする。時間が無い日は「やっつけ」でとりあえずアップする。ここに毎日アップする500字から2000字程度の文章であれば、幸か不幸か、あまり深く考えることなく書き上げることができてしまうため、惰性でアップしてしまうこともある。そんなことを続けて何になるのかと疑問に思うこともあるが、続けることそのものに意味がある気もするし、そもそも意味なんて別に要らないじゃないか、という思いもある。続けていれば十年後二十年後にそれが意味になっていたりもする。最初から意味を求めていたら意味に押し込められて何もできなくなってしまう。後日、意味が私に追いついてきたとき、えもいえぬ心地よさが舞い降りてくる。

 noteに文章を投稿する人のことはノーターとでもいうのか、知らないけど、私以外のノーターの文章はざっと見渡す限り、みんな20や30の「いいね」が付いている。振り返って私の投稿にはそんなに大量に「いいね」が付かない。そのことを私は別に気にしていないつもりでいたのだけど、最近は「◯◯さんがあなたの記事にいいねしました」という夢を見るようになってしまった。なんぼほど気にしてるねん。
 気にするならちゃんとした文章を書けよ、とも思う。「続けることに意味がある」なんてのは言い訳にすぎない。まだ意味が追いついてきていないのに意味を付与してしまうと不自然なことになってしまう。
 たぶん一度更新をストップさせてしまえば楽になるんだろうとは思うのだけど、何も書かずに一日を終えるのがどうしても気持ち悪い。たまにスマートフォンなんぞ家に置いたままで小旅行に出かけてみたいと思うこともあるのだけど、そうするとnoteを更新できないから、という理由でスマートフォンが手放せない。デジタルデトックスができない。

 note以外にも、一日一回英語学習を続けないといけないアプリも入っているし、歩数がカウントされていくアプリも入っている。近頃はスマートフォンを持たないまま歩いていると、カウントされないことがもったいないと思うようになってきた。スマートフォンへの依存が過ぎる。実際にお会いしたことすら無い人たちが私の文章に「いいね」をしてくれるかどうかを気にしているのも本来おかしい。自分だって「誰やねんおまえ」っていう顔の見えない人の投稿に興味なんて示さないくせに己を何様やと思とんねん、この自意識過剰の馬鹿野郎。

 それでも私は意味が追いついてくるまで投稿を続けるしかないのだろうか。毎日肌身離さずスマートフォンを持ち歩くべきなのだろうか。実はこんなものを放り出してしまうことで、すぐに意味が追いついてくるような気もするけれど、それでもたぶん、今日も明日もあさっても、ずっとスマートフォンを持ったままで、いつ追いついてくるかわからない意味を待ち続けているのだろう。今日も夢を見るのだろう。

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