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コロナの「せい」と「おかげ」の間で

オリンピックに賛成か反対かっていうのが、オリンピックを開催することによって不当に金儲けする人が出ることに反対、あるいはオリンピックを開催しないことによって利益を得る人が出ることに反対ということになってる気がする。

ここ何十年かの間にうすうす感じながらも、うやむやにしつつ、とりあえずスポーツの祭典なんだから裏のことは気にせずわっしょいわっしょい楽しみましょうや、って感じでお互いなんとなく落ち着いていたことがどちらも妥協できなくなった。

ある人は「コロナのおかげで明るみになってよかった」と言うし、ある人は「コロナのせいで余計なことが明らかになってしまった」と言う。同じ出来事でも立場が変われば見え方は変わるものだ。

何年か前に大手広告代理店で長時間労働による精神疾患による社員の過労死が問題になったとき、私はある会社員の方が「こんなことで労働時間の長さが問題になったりしたら、そこをアバウトにしているおかげで成り立ってるものがどんどん壊れてしまう」と嘆いておられるのを耳にしたことがある。社会の仕組みを変えるのには大変なエネルギーが必要だ。

ごくごく小さな企業でさえ、システムを変更するのには、様々な障壁がある。大きな障壁の一つが、そのシステムであるからこそ守られてきた、利益を享受してきた人の意識だろう。世の中の常識で動くのではなく、その小さな小さなコミュニティでしか通用しない常識を世間の常識であるかのように振りかざし、外部からの侵入者にも、その常識を要求する。外部からの侵入者の代表的な存在が「新入社員」である。世の中に蔓延る真っ当な常識を背負い、入ってくるエイリアンは、小さなコミュニティの常識を覆しかねないから、最初に杭を打っておく必要があるのだ。新入社員は彼らにとって「侵入社員」といえる。

私は以前、映像の会社の業務を手伝ったことがあるが、まったくの畑違いの仕事をしている私に対して、なんら教育を施すことなく、自社の「常識」を押しつけてきたのには心底参った。一度も行ったことのない現場で何をどこに配置すればいいのかわかるはずもないのに「そんなところに置いてたら邪魔になるだろう」などと罵倒され、その他諸々の業務についても、「こんなこともできないのか」といちいち罵られ、これはいったい何なのだろうかと思ったが、あの人にとって、ヨソから来た私のような人間は、彼らの「シマ」を汚す鬱陶しい存在なのだろう。※私がとんでもない役立たずであったという説もある。ついでながら、先日新聞のコラムか何かで「バッハという名前が嫌いになってしまった」と書いている人がいた。IOCのバッハ会長のおかげで作曲家のバッハのことも嫌いになりそうだというような話だったが、同じように私は、さきほどから書いている映像会社の社員が子供に「荷風」という名前をつけたという話を聞き、以来、永井荷風の作品が全く受けつけなくなった。名前を見るだけで吐き気がする。今も吐き気を堪えながら名前を書いている。本当に大嫌いだ。

京都の小さな小さな会社でさえ、このような体質をどちらかといえば「誇り」にしており、改善の余地などない。外から見れば改善」であっても彼らにとっては「改悪」なのだ。これが大手広告代理店、さらにはオリンピックなどという世界規模の祭典であれば、体質を変えることに伴うエネルギーがとんでもないものになる。

しかし、コロナ禍によって、「余計なこと」が明るみになったいま、今年はおそらく、十中八九、開催するのだろうけども、四年後八年後とこれから続いていく同じスポーツの祭典について、本当にこのままでいいのか、ということは、今回利益を得る人もそうでない人も、手を携えて考えていきたいって思うんですけど、どんなもんですかねー。

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