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わざわざ感が欲しい

今日、職場で先輩が私に「今年は御手洗祭あるの?」と聞いてきたのがうれしかった。Google先生に聞けばわかるようなことを、わざわざ聞いてくれる、その「わざわざ感」がありがたいではありませんか。

近頃けっこう、この「わざわざ感」を欲しがってる気がします。買い物にしろ、調べ物にしろ、書き物にしろ、やろうと思えば、ぜんぶスマホないしパソコンで完結してしまうのは、完結というよりは簡潔であり、簡潔でありすぎるがゆえに物足りなさがあります。コロナ禍のなか、「別に会社行かなくてもええやん」「リモートで事足りるやん」という事実を見せつけられてなお、やはり、「わざわざ」職場へ行くのも、決してオンラインが苦手でよくわからないからではなく、むしろ、その簡潔さに満足できなくなっているような気がするんですよね。

効率とか合理的とか、やたらと求められるのを鬱陶しいと思うのも、いつもどこかで「わざわざ」を求めているからなんだと思います。よくよく考えてみたら、私たちの暮らしは「わざわざ」で成り立っていると思います。効率とか合理的とかを追い求めすぎたら、私たちは、みんな最低限動ける二畳ほどのスペースに閉じ込められたまま、食事と睡眠と排泄のみ毎日決まった時間にだけ許され、恋をすることは許されず、決められた異性と決められた回数の性行為を強いられ、子孫を残していく、という生活に行き着くのではあるまいか。極端なことを書いていることくらいわかっておりますが、だって「生産性」がどうたらこうたら政治家の人が発言したりする世の中って、一歩間違えたら、そういう怖さがあると思うんですよね。

そんで、こういうのって、本当に気づかないうちに末期まで進行してしまうものだと思うから、定期的に検査しておかないといけません。最初の違和感を忘れないようにしないといけません。

しかし、これも職場の皆さんと話していたことなのですが、近頃、肩が上がらなくなったから鍼灸院に診てもらいにいってる先輩が、その鍼の先生に肩をいろいろ動かされ、「これは痛いですか?」「じゃあ、これは?」「ふむふむ、それならこれは?」などと聞かれる場合に、果たしてその「痛い」とは、どの程度の痛いなのか?がわからないから困ると言っており、実にその通り!と思った次第です。

最初の「これは痛いですか?」のところで、実は「少々痛む」のだとしても、「この程度の少々の痛みで痛いと申告してもいいものか」と悩むんですよね。悩んだ末に「痛くないです」と伝えたところ、同じような動かし方をされ、「じゃあ、これは?」と聞かれたときは「あれ?同じような動かされ方したのにさっきより痛いやんけ。でもさっき痛くないて言うた手前、同じような動かされ方で痛いと答えてしもたら、ほんならさっきのは何やってん?ということにはならんやろか?まぁ、さっきよりは痛いていうても我慢できんことはないしな」ということで、結局こちらも「痛くないです」と答えてしまう。すると、先生は先生で、「痛くない」のを前提で施術を進めてしまうから、結果、激痛に耐えなければならないことになったりする。

そもそも、最初に「違和感」があるのだから、本来、その「違和感」に忠実であるべきなんですよね。その「なんか、ちょっとおかしい」の部分を無いことにせず、認識したうえでちゃんと言葉にする、という作業を面倒くさがると、気づいた頃には、もう取り返しのつかないディストピアを仮面被って生きるしかなくなってしまう。ってなことにならないためにも、おかしいことはおかしいと、ちゃんと言い合える信頼関係を、大切だと思う好きな人とこそ、ちゃんと築き上げておきたいものです。わざわざ。

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