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図書館の開店ダッシュ

 仕事を休んでもうすぐ三ヶ月になる。
 二月初頭のある朝、いよいよベッドから起き上がれなくなって、会社に休みますと電話をする気力を振り絞ることもできなくなって、家族に「私の代わりに会社を休みますと連絡してほしい」と息もたえだえに懇願したあの瞬間から、ずっと仕事を休んでいる。

 心療内科で受けた診断は適応障害で、初めて受診した日に「月末まで休養を要する」という旨の診断書をもらってからこっち、「休養を要する」日数を毎月更新しているような状況だ。

 会社に「休みます」とたった一本電話を入れることもできなくなる一年弱前、部署の同僚が一人、会社をやめた。人員が補充されることはなく、仕事が減ることもなく、いなくなった一人分の仕事を残った人数で振り分けながら、何とか日々の業務を回していた。
 床と並行状態から動けなくなる四ヶ月前、部署の一番頼りにしている隣の席の先輩が異動になった。やはり人員が補充されることはなく、今度は仕事が減るどころか不思議と増えさえした。残った人数で振り分けながら、何とか日々の業務を回していると、プライベートでもよく遊んでいる同僚の家族が倒れ、フルリモートで変則的な勤務時間になったため全く顔を合わせる機会がなくなってしまた。家族とも面識があり、いつか一緒に遊ぼうと話していただけに心がひどく痛んだ。
 そうこうしているうちに、はなから少なかった部署の人員(正確には、会社の席に座って顔を突き合わせて仕事をする人員)は、部長と、課長と、私だけになってしまった。
 そうして、限界まで削減された人員配置のまま、日常業務に加え、約五ヶ月に渡る新規のプロジェクトがスタートした。社内の多くの部署との連携と、社外の制作会社との連携を要する、神経のすり減る仕事だ。

 十二月、年末年始の休暇を心の糧に、何とか日々を乗り切った。
 一月、大好きな漫画原作の映画化を楽しみに、日に日に頭の中が仕事のことでいっぱいになる恐怖と戦いながら会社に通った。ときおり、ベッドから全く起き上がれなくて、一日中天井を見つめているような日もあったが、次の日には重たい身体を引きずって仕事をしていた。寝ても醒めても、今日締め切りの仕事のことを考えている。頭の中でどの順番で仕事に手をつけると間に合うかを考えている。赤入れされた原稿の修正をもう一週間も手付かずのまま放置していることに恐怖している。電車に乗っている時などにふと、涙が止まらなくなることがある。
 二月初旬、気づけば、たった数回スマートフォンの画面をタップして、会社に「体調が悪いのでお休みさせてください」と電話することさえできなくなっていた。

 そんな風にして、私は仕事を休むことになった。

 今朝は、子供を自転車で保育園に送っていった帰り道、図書館に寄った。ちょうど開館した頃合いだろうと思って入り口の自動扉に近付いたら、まだ閉まっている。少し早かったみたいだ。
 入り口の脇にある花壇に腰掛けたおじいさんに挨拶をする。「来るのが早すぎたみたいです」などと言うと、おじいさんに時間を聞かれた。スマートフォンの待機画面を見ると、開館まであと八分ほどある。「八時五十二分です。やっぱり早すぎました」と言うと、おじいさんは何度かしきりにうなずいて、にこにこと笑った。一等日当たりのいい花壇を椅子代わりにして、昨日から急に真夏じみた光線を送るようになった太陽に照らされたおじいさんは、光合成をしているようだ。私は暑いのが苦手なので、少し離れた日陰に入った。

 サニーデイ・サービスの「コンビニのコーヒー」という曲を思い出しながら、さっきコンビニで買ったばかりのコーヒーをひとくち飲む。自転車で運んでいる最中にこぼすといけないので、蓋付きのカンに入ったコーヒーだ。サニーデイの曲で歌われているコーヒーは、空のコップを買ってセルフサービスでコーヒーマシンから抽出するあれのことなので、私が今飲んでいるのはただの缶コーヒーだな、などと益体もないことを考えていると、職員さんが出てきて図書館の自動扉が開いた。
 いつの間にかやってきていた帽子を目深にかぶったおじさんが、真っ先に館内に入っていく。別に、順番がどうということはないのだろうけど、私は何となく花壇のおじいさんが先に入っていくのを見届けてから、その後を追った。おじいさんは、私とすれ違うとき、「やっと開きましたね」とでもいうように嬉しそうに微笑みながら、小さく会釈をしてくれた。

 思えば、図書館の開館待ちなんて生まれて初めてしたのだった。こうして、長期に渡り仕事を休んでいなければ、一生しないまま死んでいったのかもしれない。あるいは、花壇のおじいさんのように、老後は毎日こんな感じなのかもしれない。

 扉が開いても誰もダッシュなんかしないし、図書館だから「開店」ですらないけれど、頭の中には「図書館の開店ダッシュ」という言葉が浮かんだ。

 図書館には四十分ほど滞在して、本と雑誌の計八冊を借りて帰った。

 花壇のおじいさんは、明日も図書館の開店ダッシュ(開店でもダッシュでもないけれど)をするのだろうか。自転車を漕ぎながら、そんなことを思った。

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