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ミクロを学ぶことの重要性

こんにちは。理学療法士のこうやうです。

今回は

ミクロについて

書いていこうと思います。

なんだか難しそうなタイトルですが

内容は簡単ですので

ご安心ください。

それでは始めます。





ミクロの学問を学習する

私の過去の記事を読んでいただいているかたは

わかっているかもしれませんが

ミクロ(解剖学など)とマクロ(動作学など)は

つなげられないものです

ですから疼痛や症状、治療効果といったものは

実は

解剖学や生理学などで説明できません。

説明できないというより

実証できないというのが正解だと思います。

人間を分解して理解するために作られた学問は

よりシンプルに物事を捉えるという

能力を私たちに与えてくれます。

しかし分解した時点で

そのシンプルさゆえに

生命の本質から遠のいてしまいます。

ですから「人間」という生命を理解するには

不適当な学問とされています。

ではミクロを学ぶことは意味がないのでしょうか。

私はむしろ学ぶべきと思っております。



ミクロはアイディアの宝庫

ミクロの学問が生命を理解するのに

不適当とはいえ

その学問を基に発展してきたのは

紛れもない事実です。

何よりミクロの学問は

私たちにアイディアを常に与えてくれます。

例えば、機能解剖学的アプローチは

解剖学・機能解剖学を基にしたものでありますが

これが世界的な運動器理学療法の

基本となっています。

なぜ基本になっているのかといえば

治療効果が絶大だから

という他ありません。

効果があるからこそ、治療法は残ってきているのです。

例えばDNSも人間発達学を基にしていますし

Z-Healthも機能神経学を基にしています。

このように分けて考えることは

さまざまな視点で人間を見ることができることにつながり

ゆえにアイディアがたくさん出てくるのです。

アイディアが浮かぶことは

患者により適切な治療法を処方するのに役立ちます。


私はこのようなミクロの学問が

アイディアをくれる理由として

その単純さゆえの不自由度にあると考えています。

治療に正解は存在しませんが

学問ごとの正解は存在するはずです。

そのような明確な指標があると

理学療法プログラムの考案がよりしやすくなります。

この単純さは

複雑であるがゆえに自由度の高い人体に対して

学問という名の不自由度を設けてくれます。

皆さんも知っている通り

人は本質的に自由な状態を自由とは感じませんが

ある程度限りある中での自由に

より自由さを感じます。

アイディアには自由度は不可欠なのです。


ダメなのは、、、

逆にダメなのは

この学問に縛り付けられた治療を展開することです。

例えば機能解剖学的アプローチに絶大な信頼を

寄せているセラピストが触診や機能解剖学の勉強に

執拗にこだわるといったことです。

触診や解剖学の勉強は死ぬほど大切ではあるのですが

人間を一方向からしか見ていない治療では

患者のより適切な治療法の選択に

縛りが生じてしまいます。

ここまでありふれた学問があるのですから

より多くの視点で人間を視るべきだと思います。

習得する手技を

「治療効果を出す確率」

で判断して欲しくないというのが

正直なところです。

「治療効果が出ること」の根幹は

患者自身の身体(脳)にあり

その手技に理由があるからではありません。

治療効果を出す確率が高いことに

特別な意味など存在しないのです。


ありふれた治療法があるわけですから

ありふれたものから選択できるように

治療を展開していきましょう。



本日はこれで以上です。

ここまで読んで頂きありがとうございました。


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