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選挙率の低下について考える~選挙の意味と政治への関わり方~



0.はじめに

選挙率の低下が話題になって随分経ちました。かつては選挙制度がなく、政治を行う人は戦争の勝者や貴族など、一部の特権階級だけでした。それが問題ということで参政権が拡大していったわけです。その過程で多くの血が流れました。当時の人々は喉から手が出るほど欲しかったのでしょう。
しかし今やかなりの国民が選挙に行かなくなりました。先人がこれをみたら嘆くことでしょうね。
まあそれはともかく、今回はすっかり縁遠くなってしまった選挙について再考します。


1.間接民主制はあくまで「代理」

現在の民主制国家の多くは「間接民主制」を採用しています。これは代表者を国民から選び、その代表者に政治を代行させる仕組みです。
反対に、国民が直接政治に参加する仕組みは「直接民主制」と呼ばれます。この方法は現在の複雑化・巨大化した国会にはなじみにくい。そのため、間接民主制が主流になったわけです。
忘れてはならないのは、あくまで基本は「直接民主制」だということです。私たちは政治家に、「本来は私たちがやるべき」政治行為を代行してもらっているにすぎません。白紙委任をしているわけではない。
間接民主制の問題はフランスの思想家ルソーが指摘しています。政治家の意志と国民の意志が乖離する危険性です。これについては皆さんも体感としてわかることでしょう。景気が悪いのに増税、社会保障削減が検討されますからね。

「代理」ということはどういうことか。それは政治の主役はあくまで国民ということです。
ここでひとつ思考実験をしてみましょう。
今いる政治家と立候補者が全員病に倒れたとします。さて、誰が政治の指揮をとりますか?
もしこうなっても立候補者が続々登場し、活発な議論が起きるなら私たちの政治意識・能力は高いといえるでしょう。でも誰も立候補もしなければ意見も述べないとしたら?
私たちは政治家に依存することで政治能力を失った愚か者、ということになるでしょう。つまり本来であれば、私たちはいつでも政治ができるよう訓練しておかなければならない。ただ、現状はそれができていないということです。


2.選挙に行く意味とは

では政治能力を高めるにはどうするか。
よく言われるのが「選挙に行きましょう」というもの。ただ、現状の投票率は低いです。なぜこうなってしまったのか。選挙に行かない理由を見ていきましょう。

・「自分一人が投票に行っても何も変わらない」
→その通りです。1票で政治が動く可能性は極めて低い。だからそんな無駄なことをするより、遊ぶなり資格を取るなりしたほうが(個人にとっては)遥かに合理的だ、ということですね。

ある意味正論ですが、重要なことを見落としています。それは何かというと、
「それは選挙に限った話ではない」
ということです。
どういうことか。
私はこう問います。

「ではあなた一人が生まれ、生き、死ぬことに果たしてどんな意味がありますか?」
と。

自分が快楽を追求することは「意味がある」と考えるくせに、その快楽を成立させている社会のあり方を考えることには「意味がない」というダブルスタンダード。ここに問題があります。
この考え方を推し進めれば、
「別に一人くらい殺したって構わない」
という考えが出てきてもおかしくありません。
いや、さすがに殺人はまずい、というかもしれません。でも自分一人だけが良ければいい、関係ないという思想はこの危険思想と根本的には同じなのです。
だからまずはこのエゴイズムを何とかする必要がある。

ここで提案したいのは、選挙に行く「前に」意味を考えるのではなく、まず行ってみること。そして、その「後に」意味を考えるという発想の逆転です。
先述したように、個人の目線で見れば選挙に行っても雀の涙程度の影響しか及ぼせません。だったら行かない、となってしまう。
そうではなく、まず行ってみる。
行けばどんな候補者がいて、どんな政策を掲げていて、どんな実績があるかわかる。もちろん似たり寄ったりでよくわからないと感じるかもしれません。ただ、それでも
「今、何が問題で、どんなことが議論されているのか」
ということは見えてきます。
私はこの「社会問題に関心を持つきっかけとなること」こそ選挙に行く最大の意味だと思います。
おそらく選挙に行かない人は社会問題への関心も低いと思われます。
「いや、そんなことはない。自分たちの暮らしがどうなるかは興味がある」
と言うかもしれません。
では、その暮らしをよくするための具体的な方法について日頃からきちんと考え、整理できていますか?と私は問いたい。
また、自分たちの暮らし「だけ」がよくなれば満足なのか、それとも自分たちの暮らしが多少犠牲になっても社会全体の暮らしがよくなることを望んでいるのか?
要するに大局的、俯瞰的視野でもって政治を考えられているか?ということです。
これができないと、やはり良い政治というのは難しいでしょう。

と言いつつも、現状の選挙システムに問題があるのも事実。そこを変革する必要はあります。ただ、それも結局は政治で決めるしかありません。だから国民が政治に参加すること、興味を持つこと、具体的な政策を提案し、議論することはとても大切なことです。

海外の政治に目を向けてみるのも良いでしょう。日本と文化や環境が違うため、日本では見られないような大胆な政策もあるでしょう。そういうものは結構参考になります。
本を読んで考えるのも良いですが、それだけだと頭でっかちの役人気質ができあがるだけです。やはり人と議論、意見交換するのが良いでしょう。自分の独断を対話によって修正しつつ、価値観を相対化して見識を深めていければ理想的です。


3.「広場」の復興・活用

現代人が政治に興味を持てなくなっている理由のひとつに、広場の減少、衰退があると私は考えています。
かつては公共の空間が屋内屋外を問わず、今よりたくさんあったものと思われます。昔の写真を見ると、路上で紙芝居をする人がいて、そこに子どもたちが集まっています。道端で縄跳びやメンコで遊んでいる子どもがたくさん写っています。公共の空間がそこかしこに散在していたわけです。

ところが今はどうでしょうか。
高速道路、バイパス、駐車場、空港、大企業の広大な土地取得、バブル時代の乱開発ハコモノによってそうした公共空間はどんどん減っていきました。子どもは親に言われます。
「クルマに気をつけなさい。道路で遊ぶのは危ないからやめなさい」と。
しかし、そもそも道路というのは公共の、つまりみんなのものでした。だから子どもたちはそこで遊んだ。ところが今は道路というと自動車のための道になっており、歩行者は隅に押しやられ、子どもたちも排除され、住宅街の狭い公園に押し込められています。
「最近の子どもはゲームばかりして外で遊ばない」と嘆く人がいるかもしれませんが、その遊び場を奪ったのはどこの誰ですか、と私は問いたい。

とどめと言わんばかりに学校では正解主義の教育、つまり答えが1つしかないことを中心に教えている。広場という他者との交流の場を奪い、議論の前提となる多様性の尊重を学校教育で抑圧する。
こんな状況で良い政治家が生まれますか?政治をしっかり考えられる国民が育ちますか?と私は声を大にして問いたい。

富山市や宇都宮市でLRTの再評価が進んでいます。今後どうなるかは不明ですが、こうした試みを通じて歩行者空間と自動車空間の棲み分けをしたほうが良いと思います。自動車が行き交う場所で冷静な議論なんてできないし、何より危ないです。
議論なんて会議室でやればいい、と言うかもしれませんが、
「事件は会議室で起こってるんじゃない。現場で起こってるんだ!」
というセリフの通り、現場に近い空間で議論することに意味があるのではないでしょうか。

広場と一口にいっても色々あります。
公園、公民館、コンサートホール、劇場、地区センター、博物館、美術館。いろんな形がある。
こうした場所を整備するのも大事ですが、それ以上に私たちが
「人と交流する、議論する意識」
を持つことが何より大切です。
これがないと、いくら立派な広場があろうと、ただのハコモノにすぎません。
おそらく、ハコモノを上手く活用するノウハウも日本にはまだまだ不足しています。せっかくお金をかけて作ったのだから、もっと活用方法を考えても良いのではと思います。

「政治の話はするな」とよく言われますが、政治の話ができる社会とそうでない社会のどちらが健全でしょうか?この言葉こそ、我々の政治への無関心、政治家任せの怠慢が露になっている典型例だと思います。政治の主役はあくまで私たちだということを思い出し、国民の草の根運動を広げる環境作りに努めるべきではないでしょうか。


4.おわりに

一度失われた政治への信頼を取り戻すことは、簡単ではないでしょう。しかしだからといって放置しているだけでは事態が改善することはありません。我々の手で何とかするしかない。
「人に信頼されたいなら、まず人を信じてみよ」という言葉もあります。
自己責任論が跋扈する現在では、信じられるのは自分だけ、というのが実情かもしれません。
けれどもそれが加速すると、
「今だけカネだけ自分だけ」
という末期エゴイズムに罹患し、国は滅びへと向かっていくでしょう。

そうならないためにも、我々の公共心を育て、政治能力を鍛えておく。そのために選挙に行くこと、そこで色々考え、議論することが大事だと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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