【大長編読解】マルセル・プルースト『失われた時を求めて』第1部 コンブレーを読む part4
※前回の投稿から間が空いてしまいましたが、ぼちぼち再開していきます。
1.前回までのあらすじ
夢と現実の間を朧気な意識で行き来する「私」。
先程まで読んでいた本の内容を思い出し、
寂しい野原を独り歩く旅人の情景が描き出される。
時計を見ると、夜の十二時になっていた。
2.本文読解
この文章は、素直に「私」の現状を比喩で表したものと考えてよいだろう。
ここでは再び旅人を例にして、不安が希望に、希望が絶望に変わっていく様が描かれている。旅人が比喩に用いられるのは、旅がしばしば、孤独と不安を伴うものであり、不安な心理状態を表現するのに向いているからだろう。
加えて、今後またこのような旅人を使った現状の比喩が用いられるならば、「私」が様々な旅を経験してきたということを物語っている、という風に見ることもできるだろう。
「私」はおそらく早く眠りにつき、朝の光を浴びて目覚めたいのだろう。
そこには人生に疲れ、一刻も早く眠りたいのに眠れず、不眠の夜が長続きしていることに不安を覚えている「私」の姿がある。
見知らぬ土地で発作を起こせば誰しも不安になるが、朝になって助けが来るとわかれば、希望が持てるだろう。
しかし、それが自分の勘違いだとわかってしまうと、たちまち希望は消え、不安と苦しみが続くことになる。
そして、「私」は再び眠りに入る。
(1)闇の万華鏡とは
「闇の万華鏡」という面白い表現がある。これは目をうっすらと開けたときに見える焦点の合っていないぼやけた景色なのか、あるいは目は開けているが周囲が暗く、わずかに差し込む光を見てそう表現しているのか、判然としない。
「ほんの一瞬短く目ざめることはあっても」という表現があることから、意識は覚醒状態から睡眠状態に移行していると考えると、前者の解釈が妥当だとも思える。
(2)「すべてのものが浸っているこの眠り」とは
「すべてのものが浸っているこの眠り」の意味だが、家具や部屋が「擬人法」で表現されていること、現実から夢へ移行するさいに
様々な考えや思い出があふれてくることを考えると、
「物も人間と同じように時間や記憶を持つ」
ということを暗示しているようにも見える。
家具や部屋はただそこにあるのではなく、その形、配置、色によってそこで過ごした思い出などを人間に思い出させる役割がある。
続く「その全体の一部にすぎない私」という表現と合わせて解釈すれば、
「同じ1つの空間に、同じ1つの思い出(対象によって思い出す過程や時間は異なるにしろ、最終的な思い出は共通)を持ったものが存在している」
と言っているのかもしれない(完全主観)。
「私」が「一部」でしかないということは、「私」が「全体ではない」こと、
つまり、「私」は
他の家具や部屋と合わせて一つの「全体」を形成している
ということになる。
これは最終章における大団円をひそかに暗示した文章にも感じられる。
人間は大いなる時間と空間を行き来する旅人なのだ、ということがわずかに示唆されているような気がする。
3.最後に
今回はかなり僕の個人解釈が混ざってしまいましたが、正誤を問わず、プルーストを読む際はこうした「解釈」が欠かせません(解釈も難しい!)。
プルーストの文章は比喩が多いため、
「これは何の比喩なのか」
「どういう意味なのか」
を考えて読まないと内容が頭に入ってこないのです。
この比喩の多さこそ、醍醐味であると同時に難解さの原因にもなっているものではありますが・・・。
次回も詳しく読んでいこうと思います。
以上で、今回の読解・考察を終わります。
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