コロナ禍の3年間を総括する~寛容と忍耐の大切さが身に染みた3年~
0.はじめに
2020年頃から登場した新型コロナ。早くも3年が経ちました。緊急事態宣言、テレワーク、自粛、3密回避など、様々な政策や行動様式が生まれました。
今回は、そんな世界に大きな影響を与えたコロナ禍の3年間を振り返ります。ちなみに私は2021年頃に感染し、ホテル療養の経験があります。そうしたエピソードも最後紹介します。
1.暴かれる醜い本性
コロナ当初はあくまで中国の話にすぎず、傍観者のような人が多かったと思います。しかし日本で感染が拡大し、緊急事態宣言も出るとさすがに無視できなくなりました。自粛や3密回避はこの頃から言われ始めましたね。
よくある話ですが、初期の頃は混乱がつきものです。感染への不安もかなり高かったと思います。そのせいか、醜い事件がありましたね。
そう。休みの日か、仕事帰りなのかわかりませんが、公園で遊んでいる医師・看護師に
「出てくるな」だの「来ないで」だの好き勝手言う連中が現れました。
こういう非常時というのは人間の本性が暴露されるものよなと感じましたが。
このエゴイストたちの言い分としてはこうでしょう。
「医師・看護師は感染リスクが高い。だから、彼らが公共の場に来ると(自分が ※彼らは自分がとは言わないですが。社会が、とかみんなが、とかは言うかもしれませんがね。自分がかわいいだけなのに)感染が広まってしまう。だから、彼らは家に閉じこもっていればいいんだ。出てくるな」と。
はい。いかにも自分のことしか考えない愚か者の言葉ですね。まあそれはともかく、この考え方のどこに問題があるか、詳しく見ていきましょう。
まず、医師や看護師が感染リスクを抱えているのはその通りです。しかし、それは「職務の性質上」やむを得ません。好きでそういうリスクを抱えているわけではない。
また、では他の職業の人はリスクがないかと言われれば、別にそんなことはありませんね。教師、農家、ドライバー、プログラマーetc.。ウィルスが空気中にある限り、誰でも感染しうるわけですから。
したがって、感染リスクがある人が公園を使えないのであれば、全員使えないことになります。彼らは自分たちは安全だとでも思ってるんでしょうか?
彼らにとって医師や看護師は都合の良い駒にすぎないのでしょう。医療関係者も人間であり、精神のキャパシティには限界があります。息抜きすることも時には必要でしょう。
しかし、彼ら愚か者はそれを認めない。自分が感染するリスクが1%でも上がることは全力で阻止しようとする。そのせいで誰かが傷つくことがあったとしても。悲しい話です。
自粛警察なんて言うのもいましたね。営業している店に脅迫文/電話を入れたりとか、やりたい放題です。これも構造は同じ。感染リスクが上がることは一切やるな、という過激思想。
地域によってはワクチンハラスメントもあったらしいですね。私は差別こそされませんでしたが、「ワクチン打った?」と聞かれ「いいえ」と答えると、打たない理由を聞かれましたね。そんなもの副作用が心配だからに決まってるでしょうが。
後はソーシャルディスタンスも耳にタコができるほど聞きましたね。職場では少し席が近いだけで「距離取って」と言われましたよ。どんだけ神経質なんだと呆れましたがね。
まあ、そんなこんなで初期はとにかく社会全体がピリピリしていたと思います。
2.自分の頭で考えられない人たち
コロナ禍を通じて痛感したことがあります。それは、
「自分の頭を使って考えることができない人がなんと多いことだろう」
ということです。
たとえば、ワクチンを打つかどうかの判断は本来、個々人の事情や考え方に基づいて行われるべきものです。「感染するかもしれないから打っておこう」でも良いし、「副作用が怖いからやめておこう」でも良い。どちらも正解です。
しかし、我が国のマークシート的な正解主義教育を受けてきた人たちは、そういう風に考えることができない。100か0か、正しいか間違っているかの2択しか思いつかない。だから、少数派を多数派に従わせようとする。新幹線が全国に走ろうかというこの時代に、未だに前近代のムラ社会的な枠組みから脱出できていないのです。
そもそも、社会の構成員が全員同じ行動を取る、というのは通常ありえません。というよりむしろ、そういう社会は硬直的なので持続可能性はないでしょう。だから、「マスクを着けましょう」と呼びかけても着けない人は多少出てきますし、その方が健全な社会です。全員同じ方向に進むとそれが間違っていたときに全滅します。
けれども正しさを信奉する「方々」はそのことに鈍感です。全員が同じ正しさに従うべきだ、と言う。
しかしそれは誤りです。正しさというのは1つではない。様々な形の正しさがある。だから、私たちにできることは、その正しさが互いに重なりあう領域を広げることです。いわゆる多様性の尊重ですね。
民主主義の基本原則に「多数決」と「少数意見の尊重」があります。さて、重要なのはどちらでしょうか。
そう。「少数意見の尊重」の方ですね。なぜなら、単に多数決で良いとするなら、それは多数者の専制(暴力)に他ならないからです。
多数派の意見をとりあえず採用するけど、反対の意見も無視せずしっかり聞いて、場合によっては一部取り入れる、というのが「少数意見の尊重」というものです。
しかし、日本の民主主義はこの原則をあまりにないがしろにしている。多数派が正義だ、と驕り高ぶり、少数派は淵に追いやられる。
これではいつまで経っても健全な民主主義は育ちません。正解はひとつしかないと思ってる人たちが集まって話し合ったところで、それは議論にはなりません。相手への理解が全く足りていないからです。ここを改善しないと話し合いはいつまでも平行線のままです。
3.「不要不急」の難しさ
コロナで切実に感じたのは、「不要不急とは何か」、そして、それに対する規制のあり方とその難しさです。
社会通念としての「不要不急」は食事、労働、買い物、行政等の手続き、引っ越しなど「衣食住」に関するもの「以外」でしょう。たとえば、音楽を聴くこと、旅行に行くこと、映画を観ること。これらはやめたからといって、それが原因で死ぬことはない。だから、不要不急と呼ばれるわけです。
しかし、当然ですが人は衣食住「だけ」で生きているわけではありません。お祭りやコンサート、芸術鑑賞にスポーツ。様々な文化的活動を通じて生きています。人によってはそれが生きがいにもなっている。
だから、いくら生存に不可欠ではないからと言って、それを不用意に抑圧すれば、必ず社会に歪みが出てきます。文化というのはそういうもの。「無くても死なないが、人間らしい生活は失われる」それが文化です。
一方で、医療現場が逼迫し、感染者の受け入れが難しくなるケースも増えました。医療側からすると、これ以上感染者が増えて欲しくないわけで、そのためには行動制限をかけるのが手っ取り早いということです。
つまり、一方で
「文化的(人間的)な生活を送りたい」
という声があり、他方では
「文化的(人間的)な生活を多少犠牲にしてでも生命を最優先したい」
という声があった。
この板挟みにほぼすべての人が苦しんだのが、この2年ないし3年だったと思います。
難しいのは、どちらも正しいということ。それゆえに、この二つは時に激しくぶつかります。それがコロナ禍のピリピリとした空気を醸し出していたのでしょう。
4.次のパンデミックに備える
さて、重要なのはここからです。
コロナは久々のパンデミックということもあって、みんな混乱していました。どうすべきかわからなかったし、軋轢も生まれた。それはある意味やむを得ないことだったのかもしれません。
しかし今回私たちは曲がりなりにもパンデミックを経験しました。だから、もしまた次来た場合、鳩が豆鉄砲を食らったような顔はできない、ということです。
文化的活動を自粛すべきか、それとも制約を設けつつ行うべきか。予防接種はどうするか。こうしたことを自分たちで判断し、行動する。そして、別の判断を下した人たちに対しても、それはそれで尊重する。自分たちに従え、と同調圧力をかけない。
これができて初めて、私たちは
「コロナから学ぶことができた」
と言えるでしょう。
だから次のパンデミックが起きたとき、同調圧力や自粛警察が跋扈するようなら私たちは元の木阿弥。何も成長していない、ということになります。そうならないよう、日々の生活様式や文化の見直しが必要でしょう。
特に、文化に関してはリスクヘッジも兼ねて複数持っていたほうがいい。私の場合も旅は制約されましたが、読書やゲームは何の問題もなく行えました(感染前)。ひとつの趣味・文化に依存すると、それがダメになったとき、手立てがなくなります。今のうちに選択肢を増やしておくのは賢明な判断と言えます。
おそらく、今回のパンデミックは人間活動の巨大化によるものだと私は見ています。だからそう遠くない未来、また別のウィルスに遭遇する可能性がある。そうなってからでは遅いです。今のうちに準備しておきましょう。
おまけ.私のコロナ闘病記
最後に私のコロナ闘病についてメモしておきます。
感染経路は不明で、熱は40℃くらい出ました。頭痛や悪寒もひどく、ジャンバーを着て毛布ぐるぐる巻きで寝ないといけないほどでした。
保健所からの案内でホテル療養が決まりました。ちなみに保健所の対応は冷淡、というか敬語も使えない無礼な人でした。私が若者だから適当な言葉でいい、とでも思ったのでしょうか。こういう雑な対応が社会の軋轢を増やすので、早々に改善願いたいですね。
クレームは入れませんでしたが、私はそういう人とは関わらないようにしています。
ホテル療養が決まった後、送迎バスに乗ってホテルへ。毎日3回検温があり、血中酸素濃度の確認も行われました。
外部からの差し入れも一応可能ですが、何日経ってから、とか色々制約がありました。必要なものがあれば備え付けの電話で手配してもらえます。
私の場合、悪寒が酷く、喉が痛くてろくに飲み食いできなかったため、毛布・トローチを処方してもらいました。
これら救援物資はホテルの外に置かれます。完全隔離ですね。
食事については1日3回、所定の広場に置いてあるものを患者がセルフサービスで持っていく形式でした。
部屋にはテレビが置いてあり、Youtubeも観ることができました。
というか、具合が悪くて本も読めないし、やることがないのでずっと観てましたね。
コロナの毒性も今よりは強く、結局ホテル療養は5日で終わったものの、感染してから1か月くらいは体調不良でした。また、そのあともしばらくは後遺症なのか喉に違和感がありました。
ホテル療養は私の好きな旅、本、ゲームがなく、YouTubeしかありませんでした。
観れるだけましともいえますが、具合が悪くてすることがないのは本当につらいです。
部屋からは基本的に出れないため、他者と話すこともほとんどありません。
健康で文化的な生活とは言い難い、退屈で窮屈な時間でしたね。
こうした経験があるからこそわかることがあります。
隔離されている感染者が施設を飛び出してしまい、批判されるニュースがありましたね。「ウィルスを広めるな。部屋でじっとしてろ」というわけです。
気持ちはわかりますが、隔離されている人がどんな生活をしているか想像してください。その上でもう一度聞きます。
果たして同じことが言えますか?と。
先述の通り、Youtubeが観れて、さらに3食弁当が貰える私で「すら」退屈で生きている実感がなかったんです。症状も、私の場合は軽症~中程度だと思います。重症だと呼吸器をつけるレベルですから、私はまだましなほうです。それでもオレンジジュースが痛くて飲めないほど喉が傷んでいました。
たしかに、感染者を隔離すれば域外への感染を防ぐ効果はあるでしょう。しかしその代償として、感染者の人間的な暮らしは奪われます。それに耐えられず、外に出たい人が出てくるのもある意味仕方ないのです。
私も5日程度だからまだ耐えられましたが(何度でも言いますが、5日でもつらいです)、3か月とか1年隔離されたら精神に異常をきたすでしょう。
生きるとは、ただ呼吸してごはんを食べるだけではないのだな、と身に染みましたね。
5類になってからは感染者の報道も少なくなり、収束したんだか何だかよくわかりませんが、多少落ち着いたのかもしれません。
しかし、またいつ感染が広がるかわかりません。充分注意が必要です。
「コロナより人の方が怖い」という言葉もささやかれましたが、全くその通りです。
私も散々ウィルスに苦しめられましたが、ウィルスは治療や時間経過で治ります。生き残れば、抗体を作って免疫を上げることもできる。
しかし、人間の悪性はどんな名医でも治療できないし、時間が経っても治りません。
だから、医師や看護師、感染者を痛めつけるのは不合理なんです。
なぜなら、人間のエゴイズムのほうがよっぽど怖いからです。
ここまで読んでくださった聡明な読者にぜひ言っておきたいことがあります。それは、
「感染を恐れるな」
ということです。
たしかに、感染して死ぬ場合もあるし、後遺症が残る場合もある。だから、感染しないように気をつけることは大切です。
しかし、病気になっても支え合うこころや制度があれば、人は何とか生きていけます。そう、何とかなるんです。
命を失うことがあったとしても、いずれやってくる死が早くやってきただけの話。私たちは結局、死ぬのです。
むしろ、感染を恐れるあまり、排他的・差別的な制度・仕打ちが出てくるほうがまずい。そんな世界ではたとえ身体が病気でなくとも、幸せな人生は送れないでしょう。こころが病気にかかっているからです。死を恐れるのではなく、死を恐れることによって生じる災厄をこそ、恐れるべきです。
人類に問いたいことがあります。それは、
「差別や迫害があっても、とにかく(種として)生き残るべき」なのか、それとも
「そんな野蛮なことをするくらいなら、
いっそ滅ぶべきなのか」
ということです。
『ダイの大冒険』のレオナはこう述べました。
「魔物と同じ道を歩むくらいなら、人として飢えて死にましょう・・・!!!」
あなたはどう答えますか?
それでは、世界の平和と健康を願って。
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