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なぜ戦争はなくならないのか?~世界システムの致命的欠陥~


0.はじめに

いつまで経ってもなくならない戦争。
いったいなぜ、戦争はなくならないのか。
今回は世界の仕組みを考えながら、そのことに答えていきます。


1.弱肉強食という悪法則

結論から言います。
戦争がなくならないのは、この世界が弱肉強食という法則によって支配されているからです。
肉食動物は生きるために草食動物を食べ、草食動物はそれに怯え、苦しむ。
なんと残酷で野蛮な世界でしょうか。

もし私が創造主なら、すべての生物の栄養源を太陽に設定し、互いに食い合うことのないようにしたことでしょう。ライオンとシマウマが一緒に遊べる、いや、すべての生物が仲良く笑い合えるような世界を作ったでしょう。
差別や迫害などの悪い考えが起こらないような脳の造りにしたことでしょう。
もし、それができないなら、誰か苦しむ人が一人でも出てくるなら、私は世界を作ろうとしなかったでしょう。

しかし、世界はかくも野蛮で残酷な法則を備えて誕生してしまった。正義ではなく力が支配する世界になってしまった。
このことに気付いたとき、私は気が狂いそうになりました。終わってんなこの世界、と思いました。


2.戦争を肯定してしまう無意識

さて、戦争が起こるのは誰の責任でしょうか?国の最高指導者か、それとも国民か、武器商人か。
もし誰か個人の責任であれば、私たちは永遠に戦争をやめられないでしょう。なぜなら、そうした野蛮な考え方の人間が、何年かに一人必ず生まれてしまい、戦争が起きてしまうからです。
となると国民でしょうか。でも、国民の多くは戦争を望んでいないでしょう。なのになぜ戦争はなくならないのか。

それは、私たちの無意識に
「戦争もやむを得ない」
という考えが分かちがたいほどくっついているからです。
もっと言うと、私たちは優しそうな顔をしながら、実に残忍な暴力を、無意識に他者に振るっているのです。

たとえば、飲食店が料理の製法を「企業秘密」として秘匿することがよくあります。これは経済原理からは合理的です。技術が流出すると生業が成立しなくなるからです。
しかし、経済原理を抜きにして考えれば、「美味しい作り方はみんなで分かち合った方が良い」に決まっています。それは社会全体の財産であり、誰かが独占すべきものではないからです。
そして経済原理とは結局、
「多く稼いだほうが勝ち」というゲームです。そのゲームに勝つため、製法を分かち合えなくなっている。経済社会とは言うなれば札束で頬を叩く暴力社会です。私たちは貨幣を通じて様々な人に暴力を振るっているのです。

たとえば自由貿易が推進され、海外の安い品物が入ってくると、私たちは国産品を捨てて簡単に鞍替えします。そのほうが経済的に合理性があるからです。そうすると国内産業へ打撃を与えることになる。貨幣によって国内産業者に暴力を振るっているわけです(そして、そんなことを平気でやっておきながら、それを棚に置いて芸能人の浮気を糾弾するのです。海外産に浮気して国内産業を傷つけているにもかかわらず)。

あるいはコンビニ。24時間営業していて便利ですね。でも深夜帯に行くことは、そこに勤めている人の深夜労働を肯定することでもあります。
あるいは流通。注文した商品がすぐに届くのは便利ですが、流通業者を酷使していないか。

安い服。海外で少数民族を低賃金で働かせ、それがために安い服だと知ってもなお、それを買い続けていないか。見てみぬふりをしていないか。

戦争。核兵器反対といいながら武器は捨てられない。
「攻撃されたときに守るため、武器を持つのだ」という。
でもそれって結局他人を信頼していないことの証だし、そもそも武器があるから戦争が大規模になり、死人がたくさん出るのではないか。だったら武器などいらないはず。

戦争はダメだというが、動物に非人道的な仕打ちをするのは良いのか。誰かを差別することは良いのか。自分の考えを他人に押し付けることは良いのか。暴利を貪って格差を放置するのは良いのか。
そう。私たちの無意識には、こうした
「戦争につながるような暴力性」
が隠されているのです。

おそらく、戦争をなくす第一歩は軍縮ではなく(それも大事だが)、こうした無意識の暴力性を自覚し、それが発動しないようなシステムと意識作りをすることだと思います。

いささか形而上的な話になってしまいますが、「本来無一物」というような悟り、この地上には「私」「私のもの」と呼べるものはない、ということを無意識レベルで自覚するしかないとは思います。結局、戦争というのは「無知」から来る悪行ですから。

世界のシステムそれ自体は人間の力だけでは変えることができません。弱肉強食という法則が存在する、という事実を変えることはできない。
しかし、そうした法則に盲目的に従うのか、それともそうした法則に抵抗し、別のシステムを打ち立てるのか、選ぶことはできます。これこそ人間の本質。そう、「自由」ですね。他の生き物は、この法則を黙って受け入れるしかありません。なぜなら、法則に完全に支配され、自由意志がないからです。生殖についても同様で、人間は自由意志によって「やめる」こともできる。抵抗の余地があるのです。

戦争をするのが人間なら、戦争をやめるのも人間。終わらせる方法はあるはずなのです。ただし、それを完成させるには「ヒト」ではなく「人間」でなければならない。私たちはまだ「ヒト」であっても「人間」ではないようです。弱肉強食を賛美し、この世界の地獄性を黙認している。新自由主義以降、悪びれもせずそうした野蛮性を露骨に強めてきました。
けれども、そろそろ転換期に来ているのではないか。今こそ、「ヒト」から「人間」へと進化すべき時ではないか。そしてそのときこそ、戦争がない平和な世界が待っているのではないでしょうか。


3.おわりに

今回の記事は人間の認識を超えた難解な話になってしまいました。人間の永遠のテーマではあるものの、全く解決していない非常に根深い問題です。もちろん私もこの記事程度で世界が変わるとは思いません。正直、今の人類に対しては私自身も含めて失望している、というのが本音です。
しかし同時に、人間の可能性、すなわち「自由意志」にも期待しているのです。文化や文明、芸術、神話や伝承。こうしたものを作って世界の摂理に抵抗できるのが私たちの強みです。

かつて飢饉に見舞われたことを教訓に食料生産技術を発展させ、飢餓のリスクを極限まで低下させた。
氾濫する川の流路を変更し、水害を防いで産業を守った。
知らない人と、音楽や踊りやマンガやアニメを通じて交流することができる。
争いもするけど、仲良くするシステムや意識も同じように持っているのが私たち人間です。
この強みを生かさない手はない。
野蛮な「ヒト」ではなく倫理的な「人間」が結束すれば、戦争をやめることも不可能ではない。
なぜなら、戦争が起きるのはある意味では世界の摂理によるものだが、人間はその摂理に様々な手段で抵抗し続けることができるからだ・・・と。
しぶとい生命力を持つ私たちなら、諦めず最後まで戦うことで、必ずやこの「野蛮な世界」を克服できる。
そのことを信じて、生きていこうと思います。

ご精読ありがとうございました。
世界の苦しみに慈悲を。

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