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私が「活き活きと働きたい」と願って止まないのは、「活き活きと働いたことがある」から。

「活き活きと働きたい。」

この願いは、存在意義を見失ってしまった今の大きな組織体の中では、もはや到底無理な願いなのかもしれません。

しかし、私がどうしても願って止まないのは、過去に活き活き溌剌と働いたと言う輝かしい(?)実績があり、その楽しさをこの身を持って経験をしてしまっているからです。(しかしその後思いっきり梯子を外されて一気に奈落の底に落とされると言う痛い経験もほぼ同時にしています…)

仕事ってこんなにも楽しくできるのかと……。

その時のことを少し思い出してみます。

それは今から15〜6年前のこと。まだ平社員で現場を駆けずり回っていた頃です。会社は部門は違えど今と同じ会社です。

状況が大きく変わったのは、ある上司が着任してきた後です。(ある意味私の人生もこの人との出会いで大きく変わった。)

その上司のマネジメントスタイルは、当社でよく見かける管理統制型のそれとは全く異なるものでした。

細かい指示や指図を受けた記憶は一切ありません。

私がやろうとすることに賛同してくれて、そして「よし、やってみろ」と背中を押してくれる。

そして困った時には、特に社内の対抗勢力に対しては徹底的に戦ってくれる。

特に、「やってみろ」と信じて任せてくれるスタンスは、当時まだ自信が持ちきれなかった若造の自分にとってはとても大きな後ろ盾となり、とても有り難かったです。

そうか、自分のやり方で間違ってなかったんだと思えました。

そして、いざという時には必ず助けてくれると言う心理的な安心感は、失敗を恐れずに思い切って活動できる原動力となりました。

自ずと自発的かつ積極的な行動になり、比例して成果も上がるようになりました。

多分、残業も相当していたと思いますが、全く気になりませんでした。かつ、土日という休みを挟む事が勿体無くも感じました。

『最高の居場所』とは、こういう状態のことを言うのだと思います。

ただ、当時もマイノリティなスタンスだったその上司、徐々に社内での軋轢を産むようになり、敬遠されるようになっていきます。部下を守ろうとすればするほどに…。

なぜ正しい事が認められないのか。当時の私には全く理解ができませんでしたが、時が経ち、自分もマネジメントする立場となった今、あの時の上司の気持ちが痛いほどよく分かります。

自分のスタンスを貫こうとすればするほど、こんなにも火の粉が舞い落ちてくるのかと…。

世の中では、従業員の満足度や幸福度を中心に据えるような、新しい価値観を経営に取り込もうとする動きが様々出てきていますが、旧態依然としている組織においては、キーワードさえ社内で飛び交うものの、実現にはまだまだ程遠い状態。孤軍奮闘では簡単に捻り潰されてしまいます。

あの日の再来は、そうそう簡単には来ないと頭では分かっているものの、なんとかこの手で引き寄せる事が出来ないものかと、諦めきれずにどうしても願ってしまう自分がいるのでした。

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