専門家の権力性と無責任性/民主主義における党派性の意義はもっと理解されるべき

8月24日(土)晴れ

今朝は最低気温が24.8度。ほとんど熱帯夜だった。私が起きたのが5時前で最低気温を記録したのが6時3分だから、寝床にいた間はずっと25度以上だったと思う。パジャマを着ると汗だくなので下着だけで寝ていたのだが、やはり肌触り的にはちゃんときたほうがいいなとは思う。あまり洗濯しすぎてパジャマが早く傷むことを恐れている面もあるのだが、まあそれも本末転倒な気がする。

起きて5時半ごろまでいろいろやって、車で出かけて職場の準備をし、そのまま隣町まで車を走らせてガソリンを給油。終わってもレシートが出てこないのでインターフォンでその旨を言うと併設のコンビニまで取りに来てくれとのこと。コンビニに行ってレシートと3000円以上になったのでBOXティッシュを一箱もらい、BOSSのカフェオレを買った。山の上まで車を走らせてヤマザキで焼き立ての塩パンを買い、いつもと経路を変えて家に帰った。


帰ってきてからなんとなくネットを見ていて、こちらの文章を読んだ。

私はこの著者さんとは多分根本的なところでスタンスが違うところがあるのだけど、與那覇さんの文章は比較的面白く読ませてもらっている。ただ対談的なものになると距離が遠い人がさらに距離が遠い人と対談している感じになって読めない、という感じがある。私は対談本を読むのが好きなほうなので、これは割と意外だなとは思っている。

與那覇さんの文が面白いのは、関心領域が重なるところがあるのと、誠実なアプローチであること、そして自分の知らない知見を提示してもらえるところがあるからだろうと思う。それらの解釈に関してはちょっと違うなと感じるから、スタンスはやはり距離があるのだろうと思う。ただ現代のいわゆる論客、特に自分より年少の論客の方では比較的自分にとって読みやすい文章だなと思う。

與那覇さんの問題意識の一つがこの文章に表れているような「専門家の権力性と無責任性」ということにあると思うのだが、私は基本的にあまりそのようには思わないので、その辺のところを少し買いてみたいと思った。

ここで取り上げられているのは東野敦子さんと彼女の出演している国際政治チャンネル、つまり国際政治学の方々が啓蒙のために開設していると思われる動画サイトに対しての批判なのだが、コロナにおけるワクチンや外出自粛の呼びかけ、あるいはキャンセルカルチャーなどについても批判している。

キャンセルカルチャーの問題点についてはほぼ同意見で、これは専門家というよりも先鋭的な運動家が専門家ヅラをしているジェンダー界隈などが問題としてよく挙げられているけれども、「いただき女子リリちゃん」などの問題などで「弱者男性」と総称される「女性を搾取するほどの社会的地位もなくむしろ搾取される側の男性」とでも言えばいいのか、そういう人たちの問題がクローズアップされることで、「搾取する側・差別する側の女性」が認識されるようになり、今ではむしろ「おじさんの詰め合わせ」や「おじさんの体臭をなんとかしろ」と言った女性がキャンセルされるようになってきていて、これはある意味ジェンダー平等な方向に行っているのだが、アカデミズムではまだまだお茶の水女子大学のアカデミックハラスメントの問題などをみても「ジェンダーやフェミニズムを唱えておけば罪に問われない」という「ジェンダー無罪」の傾向が強いようで、守られるべき学生が守られていないという実態があるようだ。

コロナの問題に関して言えば、私は基本的に政府が国民に要請したことは守るようにしていたし、その態度は基本的に正しかったと思っている。これは、私が80代の母を持っていて、彼女の健康状態を守るためにはそれが最善ではないかという判断もあったが、基本的に私はマスクもワクチンもそんなに賛成ではない。でもなぜそうしたかといえば、「政府がその方針で行こうと言ったから、その方針に協力したほうがその方向で効果が出やすい」と思ったからである。コロナによる廃業など経済的に大きなダメージがあったことはそれはそれで事実なのだが、コロナによる死者が世界的にみても小規模で済んだという面から言えば、政府の政策は成功したと私は思っている。

つまり私はこの問題において、「個人的にはあまり賛成ではないが政府を支持するが故に政府の方針を受け入れ実行した」わけであり、「政府を支持する」という「党派性」に基づいて行動した、というわけである。少なくとも私はその自覚を持って行動した。

党派性というものがどうして生じるかと言えば、一般に言われていることは「そちらについたほうが自分に利益がある」という考えに基づいて人間が行動するので発生するもの、と考えられているが、必ずしもそれだけではないだろう。あるサービスを受け取るのに代価を払うのは当然だが、なるべく払わないで済ませられればそのほうがいいと思う人は多いと思う。しかし、「払わなければ相手も困る」ということがわかっているから払うわけである。つまり社会が正常に動くためには自分もその代価を負担しなければならない、ということについて、それを理解しているから負担をするわけである。

しかし、世の中には「こうすればこうなる」とわかっていることだけでは成り立っていないわけで、「こうするべきだ」という意見もあれば「いや、そっちよりこっちの方がいい」という意見もあるわけである。社会主義と資本主義というような政府や国家、社会の構造に関する大きな問題から始まり、「答えが出ない問題」はたくさんある。だから「Aというプランに賛成する党派」と「Bというプランに賛成する党派」は常に存在するわけで、コロナに関しても「政府の言うプランに賛成する党派」と「政府のプランに反対する党派、ないし批判する党派」が出るのは当然なのである。

専門家の発言というものも、「医学や疫学を修めた立場から政策を提言すればこうなる」というのは当然あるし、その方針に対して「経済や市場の立場から影響を最小限にするにはどうしたらいいか」という議論や研究は基本的にあまり研究されてこなかったように思う。今回のパンデミックに関する政策議論も、とりあえず終わってしまった後でどのくらいなされているのかよくわからないが、現実問題としては今こそちゃんと振り返り研究すべき時期だとは思う。

だから実際にはコロナ禍でも旅行業者を援助するために旅行を促進するような政策も並行して行われたり、欧米諸国やアジア諸国のような強権的なやり方ではなく、矛盾する政策が並行して行われるという一件グダグダな政策になったわけだが、もしそれで死者数が少なく、また経済的影響も最小限で済んだとしたら、基本的にうまく行ったと言っていいわけだが、政府としての、あるいはアカデミックな総括がきちんと行われていないので、いまだに両方の党派が言いたいことを言っている感じにはなっている。まあ「グダグダな政策が結果的にうまくいく」ことと「総括の仕方自体がグダグダで役に立たない」のは同じ問題の裏返しのようにも思うので、ある意味仕方ないことなのかもしれないが。

とりあえずこれらの問題をまとめて言えば、「専門家」であれ「政府=国家」であれ、何かの提言を行い何かの政策を実行するということは、「党派性のある行動」なのである。日本人はそこを隠蔽したがるのは、「党派を超えた公の精神に基づく行動」が尊く、「党派的な行動」が卑しい、という考え方があるからで、これはまあ言えば儒教倫理であるし、無私の精神が尊ばれる神道的・日本的な倫理観からくるものだろうと思う。

しかし実際のところ、もちろん党派的な利害に基づいて行動するジェンダー学者みたいな人たちもいないことはないのだけど、大部分のまともな人たちは「自分たちの意見がより公平公正で真理にちかい」と考えているからこそその考えを支持するのだろうと思う。しかし、「どんな考えであれ党派的なものである」という考えはもっと強調されていいのではないかと思う。

つまり、人間は基本的に真理は知り得ない。結果的にうまく行ったものが真理に近かったと後で評価することはできるが、事前にそれを選択することはできない。論理で政策や方向性を構築していく設計主義の進歩思想の考え方と、経験や情勢を重視してより慎重な政策を採用していく保守主義の思想の二つの大きな方向性で示されるどこかの座標を持った考え方によって、結局は採用される政策が決まっていく。たとえ問題があってもその時々の合意形成にかかってくる国民の思いや外的な圧力などの係数によってそれらの政策は決まっていくわけである。もちろん突発的に妙な法律ができてしまうこともあるわけだが。

民主主義というのはそういう意味で、基本的に意見の対立はあるし、党派的なものは必ず形成されるという考えに基づいて作られた仕組みなわけである。民主主義において党派性がないということはむしろ危険であることは、全体主義の社会を見ればよくわかる。

だから、党派というものについてより正当に評価する考え方が必要なのだが、この辺りの公正性の理解がどうも日本においては低い感じはしなくはない。また党派というものについての否定的な考え方が強いから、政策について後で検証することについても後ろ向きな意見が多い。これは検証されることで不利益が生じる官僚たちがこれを嫌いがちであるということも含めて、「民主主義の正当なコスト」として検証は必ず行われるべきものという考え方を広めていく必要はあるだろうと思う。結局は会計検査的なところでそれが行われるので支出に関して不当か正当化という短絡的な味方になりがちだが、政策決定のプロセスにおいてより何が必要だったかというあたりをより検討できるようなシステムが必要なのだと思う。まあその辺は権力の中枢に関わることなので表に出さない形での検討の方が妥当なのかもしれないが、この辺りはアメリカの方がずっと進んでいるようには思われる。

話がかなり遠回りになったが、つまりは東野さんたち国際政治学者の人たちが主張したようにウクライナ戦争において「ウクライナを支持すべき」という考えが妥当だったかどうか、ということについて、実際のところは「さまざまな意見があっていい」というのが正解のはずである。ロシアを支持する専門家や論客が一定数いて、この人たちは「頭Z」と言われていたように極端に党派性が強い傾向があった(もちろんそれには背景はあるだろうがその問題にはここでは触れない)こともあり、また小泉さんや東野さんたち現代の国際政治学の主流の人たちがマスコミに積極的に出演してそうした議論を行なったこともあって、ほぼ「日本政府のウクライナ支持」は世論に支持された形になった。

ウクライナ戦争というのはいわば列強国家=安保理常任理事国であるロシアが独立国であるウクライナが西側先進国側に傾いたことに対する旧宗主国としてのロシアの危機感から侵攻が行われたいわば古いタイプの帝国主義戦争ということもできるとは思うのだが、どちらも旧ソ連の中では中心的な国家であり、また「歴史的構成体としてのロシア」にとっては存在が分断されるという感覚もアリで、「本来は先進地帯であったキエフを中心とするウクライナがモスクワの発展によって辺境に位置付けられ劣位に置かれたことに対する反発からロシア世界を離れようとする」ことに対してどう考えるかという歴史観上の対立という側面もあった。

ロシアという帝国国家においてはウクライナのような劣位の地位にあるものが帝国としての自己認識に必要であり、またそこに自らのルーツがあるという観念もまたあるので失うわけにはいかないという感覚も国家理性としてはありだろうなとは思う。ただ西側先進国的な考え方から言えば一度国家として成立したウクライナがどんな選択をしようとその国民が決めることであり、他の国が干渉すべきことではないというのが一応正義としては成り立つ。日本も基本的にこの考え方に基づいてウクライナを支持したと言えるだろう。

要はこれは第二次世界大戦後の世界の基本的なルールに基づく考え方であって、それは1920年代の不戦条約にルーツを持つ思想だが、それに抵触する行動をとった大日本帝国は最終的にその論理に基づいて解体されたということもあり、日本にとっては複雑な思いもあるところではある。

だから「ウクライナを支持する」というのはこのような「現行の国際ルールを支持する」ということであって、そういう意味で党派性はあるわけである。

そして、日本にはまた独自の感情的なルールがあり、それは「あらゆる戦争に反対」というものである。そうした中で、ウクライナの必死の抵抗を必ずしも良しとしない人々も日本にはそれなりにいたし、その「あらゆる戦争に反対」という思想の背景にある戦後民主主義思想、その中でも基本的に国際的ルールを支持≒自由主義社会を支持≒アメリカ支持でない人々、つまり社会主義を支持≒中国やソ連を支持≒心情左翼または運動家の人々を中心に、この選択に疑問を呈する人たちもいた。

問題はここからなのだが、コロナに対する政策に疑問を呈する人たちを頭から否定する人たちも多かったのと同様、ウクライナ支持に疑問を呈したりウクライナが勝利する未来に疑問を呈したりする人たちに対して妨害的とも言える言説を放つ例もあり、その中で人格攻撃的になることもままあったということなわけである。

まああらゆる意見は党派的だという前提に立てばこのような攻撃をする人たちが出てくるのも政治的舌戦においてはままあることだから不思議はないのだが、コロナにしてもウクライナにしても無難な意見を言っていれば適当に切り抜けられた時代とは違い、よりわずかな立場の違いが先鋭な対立を生む状況になってきているということもあるのだろうと思う。これは同じく共和派であったモンターニュ派がジロンド派を大量処刑したり、一度失脚したモンターニュ派が逆に旧ジロンド派によって大量処刑されたりしたような血みどろの恐怖政治を生み出した。これは進歩派が行ったものを赤色テロル、保守派が行ったものを白色テロルと言うけれども、思想対立が生み出した悲惨という点でどちらもそんなに変わらない。

しかし先に行き過ぎを生むのが多くの場合設計主義で破壊していく進歩派であり、その報復を行うのが保守派という構図になりがちなので、現代では後者についてバックラッシュと言われたりするが、その前の赤色テルールこそがまず防がれるべきものであると思う。ジェンダー論争については森元首相がパージされたような赤色テルールの状況から、おじさん詰め合わせの人がパージされる白色テルールの段階に移っていると見ることはできる。

私はウクライナ戦争の場合については国際ルールの側に立つべきだと思うし、その意味でウクライナを支援するべきだと思う。ガザ戦争については欧米側が国際ルールの側に必ずしも立っていないこともあり、イスラエルの戦争方針は支持しないが、ウクライナに関しては欧米側に立つ方が日本の国益にもつながると思っている。

大事なことは、それがどんなに日本のためになる選択であると確信しているとしても、その選択もまた党派的な行為であるという前提を忘れないことだと思う。相手がどんなに間違っていることを言っていると考えても、反撃していいやり方とそうでないやり方はあるわけである。東野さんにそれを多少踏み越える傾向があったのではないかということは、私も思わなくはない。

民主主義は基本的に党派性の存在によって成り立っている、というと、「国民の分断を正当化するのか」というような意見が出てくる可能性もあるのだが、大事なことは議論する共通のプラットフォームを持つ、あるいは維持するということだろう。Twitterなどではかなり酷い議論の応酬もあるが、基本的に両者の意見を一覧できる場であるということに存在意味は大きくあるだろうと思う。

相手の意見は攻撃しても人格は攻撃しないとか、そうした民主主義における基本的なルールのようなものは守られるべきだし、犬笛を使って炎上を狙う行為をどう考えるかなど、ネット社会における議論のルールづくりのようなものは今でも発展途上の面もあると思うのだが、より建設的な意見の交換ができるためには、まずは「党派性の意義」をもっと正面から認めることが必要なのだと思う。もちろん党派性にガチガチに縛られたカルト的な人たちの問題はそれはそれとしてあるのだが、それ以前のより健全な党派性についての理解を深めたいということである。

この辺は多様性の議論にもつながっていくと思うが、多様性もまた現実問題として存在するものであるから、それをどのように対処すればよいかということに関しても、相手を差別者と決めつけたり秩序破壊者と決めつけて排除し合うところから始めるのではなくて、党派性を認めた上で議論を積み上げていくこともまた必要だろうということだと思う。

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