知的生活と創作的環境/合理主義とギリシャ/合理主義と保守と反知性主義/ハマスとテロと北朝鮮

11月22日(水)晴れ

今朝はだいぶ寒いが、それでも四時半の気温で零下にはなっていないので、今のところ昨日よりは冷え込みは弱いことになるが、寒いことは寒い。ただ今年は今の所は極端に寒くなく毎日を過ごせている感じはする。とは言えまだ今日は小雪、冬の入口。無事冬を乗り越えられるように祈りたい。

昨日はいろいろ頭の中の整理をしたりに午前中は忙しかったのだが、あまり整理ができたと言うわけでもないのだけど、「知的生活」と言うベースを守る、維持する、メンテナンスすると言うことの重要性は再確認できた感じ。これは考えてみたら「The Artists' Way=ずっとやりたかったことをやりなさい」で言っていることと同じだなと思った。

創作ができないのは創作する環境を持っていないからであり、まず自分自身が「好きなこと・やりたかったことに心を向ける「習慣」」を取り戻すことが大事で、そのためのツールとして「モーニングページ」と言う心を遊ばせて自分の中にあるものを自由に書くノートを毎日つけること、「アーティストデート」と名付けられた「自分の中のアーティスト」とデートする、つまりわくわくするような外出イベントを企画して出かけたりすることが提唱されているのだけど、「知的生活」と言うのは心惹かれる本をしっかり読んで楽しめるようになること、古今の著者と心を通わせてその世界に没入すること、執筆に専念できる環境を作ることなどが提案されているわけで、創作論としても読むことができる。

「知的生活のすすめ」では知的生活をするためには家族がいない方がいい場合がある、みたいなことも書かれていてそれに疑問を呈する意見も読んだが、これは「Artists' Way」で「トラブルメーカーと付き合うな」と言っていることと趣旨は同じで、創作や知的活動を邪魔する存在がそばにいない方がいいと言うことだろう。家族がむしろ創作や知的生活のパートナーになったり、創作の源泉になったりする場合もあるわけだから、トラブルメーカーでないならそばにいる人はいてももちろん構わないと言うことはあるだろう。

私はずっと「モーニングページ」は書いていたのだが最近は数ヶ月に一度思い出したように書く、みたいになってしまっている。毎朝書くのはこの文章が精一杯なので、これがそのモーニングページの代わりみたいになっているわけだけど、モーニングページは思ったことをそのまま書けるがここでは流石に差し障りのあることなどは書かないので本当はそう言う趣旨の書き物もした方がいい部分はあるだろうなとは思う。

ただそう言う意味もあるので内容が取り留めなくなっている面もあり、余裕が出てきたら文章ごとにもう少し方向性を整理して書きたいとは思っている。


忙しいと、「知的生活」ないし「創作的な習慣と環境」みたいなものは最低限維持できるかできないかみたいなところにどうしても陥りがちなのだが、この文章も600日以上は毎日続けて買いているので最低限はなんとかキープしたいと言う意識はなんとか持ち続けられている感じではある。ただ、あまりに漫然と色々なものを読んでいてもなかなか焦点を結んでこないから、自分の読みたいものの傾向と書きたいものの傾向、そうして毎日自分の暮らしやテレビやネットで入ってくる様々な国内情勢や世界情勢の中で感じること、日々良い意味で心が動いたりすることなどの中から浮かび上がってくるもののうち「今書くべきかな」と思うものを選んでなるべく大きめのテーマで書いていこうと言うのが今の方針だ。

「保守についての試論」はそれなりに書いてみたのだが、その後もいろいろ読んでいると見直してみたいところが多い。特に大林太良「神話学入門」を読んでいて、「合理主義」と言うのが一つポイントになると言うことは思った。

ここで言う「合理主義」はデカルト以後の近代哲学ということではなく、理解のできない物事に対して合理的な説明を求めるという思考の傾向のことであり、インドにしろ中国にしろ日本にしろその他の世界にしろどの世界でもそれなりに合理的な説明をしようという傾向というのはあったと思うが、その中で特に近代西欧世界を経由して現代世界のスタンダードとして続いていると考えられるのがギリシャの合理主義的(いわゆる哲学的)思考ということになるかなと思う。

ギリシャの合理主義的思考というのはやはり特異なものがある感じはして、小室直樹もギリシャから西欧にかけての思想が世界を支配するようになったのは数学的思考があったからだ、みたいなことを書いていた。今その著書が(家の中の)どこにあるかわからない(父の死後だいぶ蔵書は整理したのでもうないかもしれない)が、自分が持っている本の中にある可能性もある。

数学的というのも哲学的というのも言いたいことの本質はおそらくここでいう「合理的思考」ということであって、ゼロを発明したインドもその後は超越的な思想の方に行ってしまったり、中国も階級社会から官僚的支配体制の固定化の方向に社会の安定を求めたりしているわけで、合理主義を軸に社会を作っていこうというのは、「アゴラにおける対話と議論、説得と証明、巧みな弁論」など、つまり言論の重要性に基礎を置いた、そういう意味での「民主的社会」を基礎にもつギリシャ・ローマ・ゲルマンなどの伝統を意識し、ルネサンス以来その伝統をより復活させつつ議会制という形でより多くの声を反映する社会を作り上げたことが西欧社会の強さになった、ということはあるのだろうと思う。

そういうギリシャ以来の伝統について考えようと思い、平行してギリシャ学者向坂寛著の「対話のレトリック」、ブラン「ソクラテス以前の哲学」(これはミレトスの自然学派の哲学とピタゴラスの教団を淵源とするギリシャ哲学の歴史を素描しているようだ)、また「地中海・ヨーロッパ世界における知の所蔵庫」出会った修道院についての今野國雄「修道院 祈り・禁欲・労働の源流」を平行して読もうと思っている。

当然ながら「神話学入門」は神話学についての本であって合理主義の問題について主に書いているわけではないので第一部まで読み終えてから読書方針をまた考えようと思う。


私が保守主義について書こうと思った一つの理由は、「保守」という言葉をめぐる混乱があるので自分なりに整理したい、というのがあったからなのだが、もちろん政治運動に関わるものはその状況によって同じ言葉でもコンテクストが変わってきたりすることはよくあることだからまあ運命的な意味で仕方ないことではあるのだが、ただ自分の言いたいことや世の中で今保守と言われているものがどういうふうに仕分けされるべきかみたいなことは言っていかないといけないところがあるようにも感じたからだ。

今ネットを見ていると最近結成された「日本保守党」というのがある程度の勢いがあるように感じられるのだが、それらについての問題性のようなものも感じるということもあるが、もともと彼らも日本で「保守」と言われてきた層の一部が凝集力を持って出現したに過ぎない、という面もあり、ここは整理しておいた方がいいというところもある。

「保守」という言葉を近年自らの思想を語るものとして使っていた人では西部邁がいるわけだが、彼のいう保守主義は決して反知性主義でもなければ反動主義でもない「合理性」のある思想である。

というのは思想史における「保守主義」というのは主にイギリスで発達した思想で、フランス革命の急進的合理主義・設計主義に反対したエドマンド・バークを始祖として、ニーチェなどを批判したGKチェスタトンや対話や静かな生活を重視したマイケル・オークショットなどの思想の系譜であり、西部が拠って立っていたのもそういう思想だったと思う。

左翼と保守派の対立点は左翼から見たら保守がいわゆる「保守反動」に見えたのに対し、保守から見れば左翼急進主義は「デカルト的合理主義のみを推し進め自分達の誤りに気がつかない」科学を主張する急進主義者たちであって、保守を主張することはそれらに対するアンチテーゼであり、西欧的伝統が作り上げてきた伝統を重視する合理主義的立場からの反論、ということになる。

ただ一方でいわゆる保守派の中に戦後特に左翼的傾向が強くなってきたアカデミズムに対する反発や、アメリカの反ワシントン政治の文脈から出てきたトランプ主義、メガチャーチのエヴァンジェリスト教会を背景にもつキリスト教保守主義・原理主義などの反合理主義的傾向、「反知性主義」的な動きもあることは事実だろう。

彼らは今イスラエルで政権を取っているいわゆる「右翼ポピュリズム」であって私が考える「保守」とは別物なのだが、もちろん自らポピュリズムを名乗る政党はないわけで、より穏健な「保守」という看板を背負うことにしたわけだから、先に述べたような保守の立場からすれば割と迷惑ではある。

ただこれはこれとして考察すべき大きなテーマであるし、彼らの言動やネタニヤフ政権、あるいはトランプ政権やアルゼンチンに成立してミレイ政権などもまたこうした観点からも見直してみたいとは思う。反知性主義やポピュリズムはいわゆる知性や合理性を運動の基礎にしているのではないとしたら、何が基礎なのかということは考えられるべきだろう。特に強硬的な右翼層を支持基盤にしてしまったネタニヤフ政権の殲滅作戦・民族浄化行動などは実際に何をやっているかだけでなく思想的背景と、そうした層を政権に取り込むことの危険性など様々に考えなければならないことはあるのだろうと思う。


これらのことについて考えながらもう一つ思いついたのがハマスのことだが、ハマスのようなイスラム過激派組織、他に例えばアフガニスタンのタリバンやイエメンのフーシ派もそうだが、彼らは単なるテロリスト集団ではなく、政治的目的の実現にテロ行為を行うことを躊躇しないという特徴を持ってはいるが学校や病院なども持っているある種の統治組織でもあるわけで、人道問題以外では国際社会との関わりがないので実態が見えにくいが普通にイスラム世界の民衆に支持されている社会組織でもあり、フーシ派やタリバンは準国家組織でもあるわけで、ハマスもそれに近い。

ただ国際社会から彼らが「国家」として認められないのは女子の教育禁止などにみられる極端な政治的主張(宗教が背景にはあるが)や先に述べたように通常の軍組織だけでなくテロ行動も行うことにあるわけで、恐らくは19世紀以前に彼らのような存在があったら普通に国家的勢力として認定されていた可能性はある。まあ一時的なものにとどまったらスーダンのマフディや中国の太平天国のように反乱者の定義で終わったかもしれないが。タリバンなどはかなり長期的に「政権」を維持しているわけで、普通のテロリスト集団と見たら対処を見誤るだろう。

もちろん、普通の国家であってもテロ行為に近いことをやらないわけではなく、アメリカがキューバのヒッグス湾で亡命キューバ人を使って侵攻を仕掛けたり、ピノチェト政権をひっくり返したりなどの工作もするし、「汚い」と言われるような手段を使わないわけではない。日本も中国や韓国に対して閔妃殺害事件や張作霖爆殺事件などを仕掛けたこともある。現代においてはより巧妙にはなってきているが、ロシアがウクライナで反ロシア政権が成立したのはアメリカの陰謀だと主張するようなことは、全く妄想だとは言い切れない面があるのも事実だ。

近年、特に日本に対して仕掛けられてきた国家的なテロリズムといえば、もちろん北朝鮮による拉致である。北朝鮮も曲がりなりにも70年以上「国家」の形を維持してきてはいるが、ラングーン事件や大韓航空爆破事件をはじめとして様々なテロ行為を行なってきている。

ハマスがイスラエルに対して仕掛けた10月7日のテロリズムはこうした北朝鮮の行為とどこが本質的に異なるのかといえば、北朝鮮はとりあえずは隠密理にそれを行なっているということで、ハマスや日本郵船の輸送船を乗っ取ったフーシ派はそれを誇示する形で行っているということだけだろう。

国家は暴力装置であるということは昔から言われていることだが、ハマスと北朝鮮の違いを明示的に明らかにすることはそんなに簡単ではないような気もする。いずれにしても、国家あるいは準国家組織であればそうしたテロ行為が正当化できるというわけではなく、もちろんハマスのテロ行為も強く非難されるべきことだが、国家論的には結構難しい問題もあるのではないかと思ったのだった。


なんか外が暗いなと思ったが、曇っているわけではなく、霧が出ているようだ。天気の予想は晴れである。

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