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写真をめぐる覚書 〜ある日感性は突然に〜

 「写真って自分の無意識が写ってしまいますよね」

 そう語る同僚にうんうんと激しくうなずく。
 自分が写っている写真を見たときの「え、自分ってこんな姿なの?」という意外性と落差。鏡で自分が見ている姿や顔かたちとは違うその様に違和感を持つことがよくある。また、自分でも気づいていない癖になってしまっている仕草や表情。そんなもんが見事に白日の下にさらされる。最近、顔が正面から写った写真を見て、歳って隠せないなあと思っていたところだ。

 しかし、同僚はそこがおもしろいのだと言う。「自分が思っている『自分』と他人が知っている『自分』ってまったく違うんですよねぇ」とちょっと前方へ出だした下っ腹をパンパンと叩きながら、さもワクワクしているかのような満面の笑みで語っていた。そんなお昼休憩。

 ここのところ写真に興味が湧きだした。それも急激に。
 きっかけはある喫茶店でたまたま手にとった写真集。アレックス・ウェブの『The Suffering of Light : Thirty years of photographs』だった。パッと見たときに何か惹きつけれるものがあり、自分の席まで持って行った。写真集の「見方」が分からない僕は、だいたいパラパラ漫画のごとくページをめくるのが常となっていたが、このときは違った。ページをめくるごとに現れる絵に釘づけで、じっくりと時間をかけて舐めまわすように見ていった。

 世界中のいろんなストリートの光景が並んでいた。僕ら日本人の日常と変わらない光景から、目を背けたくなるものまで。カメラはただたんに、「そこ」にある情景を保存していた。その絵を僕の脳が勝手に解凍し、勝手に記憶を注ぎ込んでいた。ずっと海を眺めるように、そして、ずっと星空を眺めるように、なんだかその写真の世界と一体になっているのであった。

 そのとき気づいたんだ。あ、こういう写真が自分は好きなんだって。それと同時に、こういう写真が自分は撮りたいんだとも思った。「好き!」と「撮りたい!」がつながる瞬間だった。今まで生きていて知らなかった自分の感性に気づいた。それに気づいてからは興奮しっぱなしで、やっと自分流の写真の見方が生まれるのを感じた。

 この感覚は、かつて大学生のときに『創造者』という本に触発されて、詩に興味を持って書きはじめたときと似ていた。何か得体のしれないものが内側から突き上げてくる感じ。そういえば、ギターや歌にのめり込む前夜もこんな感じだったか。

 写真にかかわらずだが、ストリートの何気ない光景が好きだ。「ストリート」って言うとちょっとかっこよすぎるか。なんだろ、道端とか道の途中…道程? 一言でうまく言い切れないが、自分が歩いていてその途中ふと何かをきっかけにして視界に入るものに目を奪われることがある。それが人とか鳥とか建物とか月とか、何か対象がはっきりしたもののときもあるし、それらを含めた景色や光景に釘づけになることだってある。

 それをもっと砕いて言えば、生活の延長線上として見える光景が好きなのかもしれない。日常の何気ないふとした瞬間、同時多発的に何かが「その場」で「その瞬間」に起こる奇跡、当たり前が当たり前でなくなる瞬間、当たり前が自分の肌から離れて「初めて」の感覚へと変化していく瞬間。そんな自分の「時」と周囲の「時」とを一瞬のうちに切り取る写真ってすごいって思うんだ。そして、そんな一瞬を切り取る仕事をしていたり、アート作品をつくる人たちって、ああほんとにすげーや、とため息をついてしまう。

 仕事、プライベートかかわらず、自分の周りにはカメラを持って写真を撮っている人たちがたくさんいる。彼らは何を考えながら写真を撮っているんだろう。

 かつて突然音楽をやってみたくなってギターを買った。
 かつて突然詩を書きたくなって詩を書いたことがあった。
 それらと同様にして、突然写真を撮りたくなってきた。カメラが欲しくなってきた。

 それら「突然」の前には、何か奇跡的な偶然があった。
 油断しきって不意打ちを食らって、自分の世界に穴があいた。
 その穴から入ってくる未知で不思議な物事を知りたくて、コミュニケーションをとりたくて、手を出さずにはいられないのかもしれない。

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