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第7章 死を覚悟した唯一の瞬間。幹細胞移植による1カ月の隔離入院生活

半年間の抗がん剤治療は結果的に成功しました。しかし現状では腰の腫瘍が残っているのと、肉眼では確認できないが体内に癌が残っている可能性がある状態でした。そのため2つ目の治療を行うことになりました。この治療はとにかく体に負担をかける治療のため、1ヶ月ほど体力をつける期間をもうけて、それから治療に望むことになりました。

治療までの1ヶ月間


これまで半年間続いていた薬の投与が無くなったため、次第に副作用が減っていき体の調子が良くなっていきました。次の治療は体力勝負ということを医師からは聞いていたので、治療までの1ヶ月は体力を回復することに全力を注ぎました。そのために取り組んだことは食事と運動の2つです。午前中は後遺症である低血圧や貧血があり体調が悪いので、基本午後から活動を開始していました。

食事に関しては必ずお腹いっぱいになるまで食べることを徹底しました。栄養やカロリーなどは気にせず、体調が悪くても食べれるものを暇さえあれば食べるようにしていまいた。やはり味覚はなかなか戻らないので、美味しいと感じることはめったにありません。それでも食べたものは確実に体に蓄積されて栄養となります。次の治療を乗り越える確率を1%でも高められるように食事もリハビリの一つと捉えて取り組みました。今までは美味しいものを食べることがリフレッシュになっていたのに、初めて食事をすることがストレスとなりました。普段おいしいと感じるものを食べられることがいかに尊いことなのかを実感することができました。

運動に関しては仕組み化して毎日取り組むことを意識しました。気分でやろうとすると体調が悪いときや、やる気にならないときはサボってしまいます。これは普段の勉強であったり、トレーニングなどでも同じだと思います。私は生きることを一番の目標にしていたので、強い意志を持って取り組み始めました。中途半端に取り組んで体力が戻らずに治療を迎えることは自分としても許せなかったのです。それで死んだときに絶対に後悔すると思いました。なので、毎日の生活に組み込み、何時にどのくらいやるのかを習慣化させました。やはり最初の5日くらいは、体調が悪いなか運動するので辛かったです。それでも次第に体が慣れていき、どんどん量をこなせるようになっていきました。

体力回復までの道のりは険しかったです。初日は50mくらい歩いてすぐにウォーキングをやめました。たった50m歩いただけでふくらはぎや太ももがパンパンになり、呼吸も苦しく息が上がってしまったのです。翌日には強烈な筋肉痛がきて「自分どんだけ体力ないねん。」と失望しました(笑)。それでも初日の自分が最低ラインなのはわかっていたので、ここからは継続さえしていければ、成長しかないと逆にやる気も湧いてきました。そこからは1日おきに少しずつ距離を伸ばしていき、3週間後には5km以上歩けるようになっていました。そして最後の1週間はランニングにも挑戦しました。最初は100mほどで肺が苦しく息が上がってしまいましたが、1週間の継続で最終日には2kmの軽いランニングができるようになりました。

こんな感じで、もうこれ以上できることは何もないと思えるくらい体力づくりに励んだ1ヶ月でした。なので次の治療に入るときにはこれで乗り越えられなかったらそれまでの人生だったんだな。と割り切って病院に向かうことができたので良かったです。


ついに始まった1ヶ月間の隔離入院生活


体力を回復させ、1ヶ月ぶりの入院生活が始まりました。2つ目の治療は血液に関わる治療をするため、前回入院していた「骨軟部腫瘍科」というところではなく「血液内科」という別の階で入院することになりました。担当医や担当看護師も変わるので新鮮な気持ちで治療に入ることができました。ただこの時の私は、まさかこの1か月間がこんなにも過酷な生活になるとは全く想像していませんでした。

入院する部屋は完全に他の病室とは隔離された部屋でした。扉は二重になっていて窓はありますが開けることはできません。病室の中にシャワーなども完備されていて、治療中は病室から1歩も出ることが許されない状態でした。免疫力が下がるため、少しのウイルスに感染しただけでも死に至る可能性があったからです。看護師さんは防護服みたいなのを着て回診をしに来ます。食事も加熱処理した食事しか出ません。生ものや殺菌していない食材だと何かしらの菌に感染してしまうリスクがあるからです。この状態で1カ月の生活を送ることになりました。もはや刑務所レベルだなと思いました(笑)。

治療の内容としては「超大量化学療法+幹細胞移植」というものをしました。治療の手順はこんな感じです。

1.体力がある状態で自分の血液を採取し保存しておく
→生きている白血球や血小板を事前にとっておく。
2.強力な抗がん剤を投与して全身のガンをすべて死滅させる
→健康な細胞もすべて死滅する。
3.再び保存しておいた血液を体内に戻し、生着させる
→細胞を元気に戻す(だいたい2週間くらいかかる)

左図の治療をおこないました。


1.体力がある状態で自分の血液を採取し保存しておく
まず入院するとカテーテル手術を行いました。血液を採取したり戻したりする際に、太い血管が通っている太ももの付け根に管を通して、そこから血液の採る必要があるため手術が必要でした。この手術はなかなかグロかったです(笑)。局部麻酔で行うため意識がある状態で太ももの付け根を切られ、管を入れられます。麻酔が聞いているため痛みはないのですが、たまたま手術室の鏡の角度が悪く、切開する箇所が見えていました。見ないように目をそらすこともできましたが、めったにできない経験だと思ったのでずっと観察していました。自分の体にメスが入っていく瞬間は気持ち悪くて、もう二度と思い出したくはありませんね(笑)。ここからしばらく太ももの付け根に管が入った状態で生活をすることになりました。動きにくさは少しありますが歩いたりは全然できる状態でした。

その次の日くらいに血液の採取を行いました。大きな機械を使い、1〜2時間くらいかけて血液を採るというもので、ベットに寝ているだけでいいので痛みもまったくありませんでした。


2.強力な抗がん剤を投与して全身のガンをすべて死滅させる
数日空いて、強力な抗がん剤の投与が始まりました。今までも強力といわれている抗がん剤を何度も投与していましたが、今回はさらに過酷という話を事前に聞いていたので、少し緊張感がある状態でスタートしました。実際に投与が始まり少し時間が経つと、副作用による体のだるさや倦怠感が襲ってきました。ここまでは前回の抗がん剤とそれほど変わらないなという印象でした。こんなもんなら全然耐えられると思っていたその時、死を覚悟した瞬間を迎えました

ベットに寝ていると急に気絶して3秒後くらいに意識が戻るという不思議な現象が起こりました。自分でもよくわからないのですが、急に脳や視界がシャットダウンして、数秒後に気づいたらモノを落としていたり、足をぶつけていたりしているという状態でした。そしてこの気絶が繰り返し起こるようになりました。どんどんそのペースは速くなっていき、体を動かすと意識が飛び、体がけいれんしてまた意識が戻るというのを10回ほど繰り返していたと思います。そして命の危険を感じてナースコールを押そうとした時、気絶をしたままベットから落ちてしまいました。

目を覚ました時にはまったく別の病室に自分一人がいました。一瞬「あれ、もしかして死んだのかな」と思いました(笑)。少ししたら看護師が来てくれて状況を説明してくれました。薬の影響で体が発作を起こし気絶してしまったみたいです。ベットから落ちるときに奇跡的に自分でナースコールを押していたみたいで、気絶した後すぐに看護師数人が助けに来てくれたそうです。ベットから落ちた衝撃でおでこには大きいたんこぶができていましたが、それ以外のけがはありませんでした。本当に不幸中の幸いだなと思いました。もしもあのときナースコールを押せていなかったら、隔離部屋で数時間気絶していた可能性もあると思うとぞっとしましたね(笑)。

3.再び保存しておいた血液を体内に戻し、生着させる
抗がん剤により全身の細胞を破壊されたため、口の中やのどや目などの粘膜がどんどんやられていきました。口の中には口内炎が無数にできて、のどはただれて強い痛みがあり話すこともほぼできない状態、目はドライアイになりました。事前に保存しておいた血液を体内に戻したのですが、その血液が体に生着するまでには2週間くらいかかります。なのでこの2週間は白血球や血小板などがほぼ体内にない状態で生活をしなければなりませんでした。人間の口や腸には菌やウイルスがもともと存在しているので、どんどん悪さをするそうです。腹痛もひどく全身が痛いのでなかなかしんどかったです。

そのあとも再び脱毛が始まり髪、まつげ、眉毛は全部抜け、全身の皮膚の細胞もやられてしまったので、色素沈着により肌が黒ずんでしまいました。顔色が悪いとかのレベルではなく、生きているのが不思議なくらいの見た目でした。眉毛もまつげもなく、ウイルスにやられて目も腫れていたので、けんかに負けた裏社会の人みたいな風貌でした(笑)。

生着後のリハビリ生活(ダンベル取り上げられ事件)

自分の血液を戻し、少しずつ体力や気力が回復していくのを感じました。体調面や血液の回復状態を確認するため、毎日採血があります。抗がん剤治療をしていた時は、白血球や血小板がほぼ0だったのですが、次第に数値が回復していき、成人男性の半分くらいの数値まで戻していくことができました。

また、この頃から少しずつリハビリが始まりました。最初はベットから起き上がるのも一苦労で、数歩歩くとすぐに筋肉痛になってしまう状態からのスタートでした(笑)。隔離生活は続けないといけなかったので、病室内でできるリハビリを積極的にこなしました。まずは自転車を漕ぐ器具を3分間やってみました。たった3分間ゆっくりと自転車を漕ぐだけなのに息が上がってしまい、自分の体力のなさに驚くと同時に、こんなに自分の思い通りに体が動かないものかとおかしくなって笑ってしまいました。

その後はダンベルを貸してもらいました。リハビリの先生からは「体調がいいときだけ無理せずにやってくださいね。」と言われていました。しかし一刻も早く筋力を回復させたかった私は、多少体調が悪くてもそんなの気持ちの問題だと自分を奮起させ、暇さえあればダンベルでリハビリをしていました。するとダンベル貸出2日目のこと、腕の筋肉をパンプアップさせ過ぎて、点滴を入れている腕の管から大量に出血してしまいました(笑)。縫っていた糸などもはち切れてしまい、縫い直すことに、、。その日からダンベルを置いておくとやり過ぎてしまうため、没収されてしまいました(笑)。

そんなリハビリ生活を続けること2週間、ついに病室外でのリハビリ許可が下りました。1カ月ぶりの外の空気はほんとに新鮮でおいしかったのを覚えています(まだ病院内なので外の空気は吸えていない)。病院内に設けられているリハビリ施設内で毎日リハビリを継続しました。階段を上ったり、自転車を漕いだりして、体力を回復させていきました。外の景色を見ながら自転車を漕ぐ時間はとても楽しかったのを覚えています。外の世界と遮断されていた生活から、ようやく普通の人として生きられる環境にもどってこれたなと嬉しい気持ちが大きかったです。そして日常生活が送れるくらいにまで体力が回復し、血液検査結果も数値が安定してきたので、無事退院をすることができました。


乗り越えた治療の結果と危なかった精神状態

治療の結果、転移していた腫瘍も含め肉眼では確認できない状態になりました。完全に治療は成功し、次の治療を受けられる権利を得ることができました。万が一ここで転移している腫瘍が消えていなかった場合は、次の治療には進めない可能性がありました。ほんとに運が良かったなと思います。

闘病生活全体を通して、この1カ月間の治療が一番きつかったです。常に体調が悪いので体力的にも負担が大きかったです。また、入院中に行われる処置はほとんどが死のリスクを伴うものでした。新しい治療や薬の投与があるときは高確率で、医師からの説明と同意書の記入があります。同意書には数えきれないほどの副作用や後遺症が羅列されていて、死に至る可能性もあるという説明を受けます。そんな説明を何度も受けて同意書にサインする日々だったので、死に対する恐怖心も薄れていきました

ずっと「生きる」という強い気持ちをもって治療を乗り越えていましたが、この治療中に1度だけ「もうここまでかもしれない」と頭をよぎる場面がありました。念のため、最後の連絡になるかもしれないと思い、会えていない家族に対してラインを送ったことを今でも覚えています。その時の感情としては死ぬことが悲しいとか怖いという気持ちすらなく、もう体力も気力もなくなり無の状態でした。感情がなくなるという経験を初めてしましたが、今思うとかなり危ない精神状態だったのかなと思います。


次の章では、この1カ月の隔離生活中に起こった2つの奇跡的な体験について書いていきます。



最後まで読んでくださり、ありがとうございました。



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