見出し画像

【リアリティーのある小説を書くために】人称と視点を上手に活用する方法(2017年1月号特集)


 小説には黒子のような語り手がいます。ここでは、語り手が語ったことを口述筆記するという小説の仕組みについて解説します。

語り手について知っておこう

語りの抽象性が物語のリアリティーを支える

 小説は、上記のイラストのように、語り手(ナレーター)が語った話を、作者が書きとめたものという仕組みになっています。
 でも、皆さんはきっとこう思うでしょう。語り手なんている?
 通常、小説を書くときは、語り手はいないかのように扱います。
 つまり、語り手は主人公に密着(同化)し、主人公とぴったり重なってしまいます。読者から見ればいないも同然です。

 なぜそんなことをするのかと言うと、リアリティーがでるから。
〈そこに大きな桃があったそうだ。桃の中は暗く、中にいた桃太郎はさぞかし不安だったろう。だから桃が切られ、光が差してきたときはほっとしたに違いない。〉
 このように語り手によって間接的に語られると、作品と距離ができ、臨場感がありません。

〈気づくと闇の中にいた。ここはどこだ。手で触った感触では脂肪の塊のようなものの中にいるらしい。そのとき、急に視界が開け、桃太郎は眩しさに目を閉じた。〉
 主人公自身が語っているかのように書くと、出来事を直接垣間見ているような気がします。語り手を主人公に同化させて、いないかのように扱うのはこのためです。

昔あったことを今語るというテクニック

 でも、皆さんはきっと思うでしょう。だったら語り手なんていなくていいじゃないかと。
 では、こんな文章。
〈ランチは和食にしようと暖簾をくぐった。午前中とあって店内はまばらだ。「いらっしゃい」三年後に事故に遭う店主が言った。〉

 三年後に事故に遭うってなぜわかるの? 
と思いますね。人物が未来のことを断定したらおかしい。
 しかし、三年後にいる語り手が語っているという設定にすれば、
〈三年後に事故に遭うことは、このときはまだ知らない。〉
と書けます。このように書くためには、語り手が必要なのです。

視点と人称を決めよう

一人称小説か、三人称小説か

 語り手が作中に降りて、誰に密着するかで人称が変わります。
 語り手が主人公だけに密着し、「僕は」「私は」のように語る小説を一人称小説と言います。
 一方、語り手が自由な位置にいて、どんな人物にも密着し、あるいは誰にも密着せず、「一郎は」「花子は」のように三人称で語る小説を三人称小説と言います

 一人称は「私」のカメラしかありませんので、一人称一視点。
 三人称には一視点、多視点、全知視点がありますが、初心者にお勧めなのは三人称一視点。これは一人称小説と三人称小説のいいとこ取り。
 三人称一視点にするのは簡単で、〈私は……〉の「私」を主人公の名前の〈太郎は……〉などに替え、太郎視点で書くだけです。

カメラに映らないことは書けない

 一視点の小説では、語り手は主人公の内面に映ったことを語っていきます。主人公に知覚できないものは書けません。
〈春雄は後ろにいる息子を見た。頑張れ将太。将太も頂上まで登ってやると思っていた。〉
〈頑張れ将太。〉は主人公の内面の声ですから、地の文としてカッコなしで書けます。

 しかし、〈将太も頂上まで登ってやると思っていた。〉は書けません。他者の内面がわかったら超能力者です。書けるのは、〈と思っているだろう。〉という推量や、〈と思っているような顔をしていた。〉という主人公に知覚できることだけです。
〈窓の外は雨だった。巧実はコートを手に玄関を出た。「雨だとは知らなかった」〉

 一視点の小説に書かれたことはすべて主人公の内面に映ったことですから、〈雨だった。〉と書いたということは、それを認識したということです。
だから、自分で「雨だった」と言っておきながら、「雨だとは知らなかった」はありえません。

主人公に寄り添って書く最大のメリット

 多くの小説は、ある一人の人物(主人公)の視点で書いていきます。その理由を三つ挙げます……

「人称」と「視点」で小説を制す
特集「誰でも一生に一冊小説が書ける」
公開全文はこちらから!