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liminal space-東京深夜徘徊-

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コロナウイルスの流行のせいでできなくなったことの一つに、「深夜の都心散歩」がある。
それはただ、都心の街を、宛てもなく用もなく、延々と歩き続けるだけである。――が、何だかこの時間が、私は甚く好きであった。

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都心の街は、昼間はどこへ行っても、人がいるものだ。
しかし、打って変わって、深夜には、人の流れというものが「ひたと止む」場所も多い。
そうすると、街は、街が元々持っている磁場のようなものを、グイッと、勝手気ままに立ち上げ始める気がする。それを感じて歩くわけである。――と、言葉で説明したところで、抽象的過ぎて、この散歩の良さは伝わらないとは思うのだが。

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そんな東京の磁場の、揺れとか、歪みとか、襞とかまでを、ありありと感じることができる気がするのが深夜の時間、だとするなら、日常には隠れてしまっている、ひしめき合う磁場と磁場の狭間に生じる「隙間」みたいなものも、見えやすい時間ともいえるかもしれない。

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そうでなくても都会という場所は、昼間は「現実の」人々のエネルギーが、休む間もなく無数に行き交っており、そんな同じ場所で、深夜になるとそれがパタンと消えてなくなるとするなら、そのエネルギーの目盛は、ゼロではなく、マイナスに振れる場合があっても、おかしくないのではないだろうか。

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特に東京という場所は、元々が、磁場の強い土地であるように感じる。
そして一人一人の生きている人間も、一人当たりでは微量ながらも何らかの「磁力」を持っているとして、でも数としては大量に、それも思い思いの方向で、ひっきりなしに行き交っているという、東京とは、そんな街なのである。
エネルギーの強力な、満ち潮のあとの、引き潮。――それが、深夜の都心に私か感じる印象である。
普段は海の底にあるはずなのに、その潮が引いて、露にされた海底を、歩いているみたいな気分になるのだ。
昼の間に、余りにも満ち過ぎたエネルギーに「隠されていたもの」が、それが一気に引いた夜更けに、そこかしこに露になっていても、おかしくはないのではないだろうか。

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ところで私は、怖いものが別に好きではない。
異界だの、心霊だの、超常現象だのに対して、「ちょっとだけなら覗いてみたい、触れてみたい。」という気持ちもない。一切、立ち入りたくないのだ。
そのおかげと言っては何だが(笑)、実際に「怖い!」と感じるような思いをしたことがない。
多分、私の「怖がりセンサー」が、巧みに「そこら辺」だけは避けてくれて、直接出くわさないようにしてくれているのだろう。
または、本気で「そういう怖いものには私は会いたくありません!!!」という看板を掲げていると、向こうもそれを察知して、「怖がらせてやろう」な「方々」は、私みたいなものには近づいてこないのかもしれない。
「向こう様」にだって、人を選ぶ権利は、もちろんあるのだ。
早い話が、私は「心が狭い」「余裕のない」「取り付く島もない」人間なのである。(笑)
(ここら辺、まったくよくわからないので、以下は憶測だが。)
「この世のものではないかもしれない不思議な方々」とよくお会いになる人というのは、もしかすると、基本的に根っから、すごく人が好かったり、人に対してやさしかったりするのではないだろうか。
苦しんでいる人は放っておけないし、怒っている人の話は聞いてあげたいし、淋しい人のそばにはいてあげたいし、悲しんでいる人は慰めてあげたいし、彷徨って迷っている人は道案内してあげたいし、……そりゃあ、そういう人のほうが「選ばれやすい」気はします。
「どうしてあげることもできない」と解っていても、そうしてあげようとしてしまう人って、現実の日常生活の中にもいますし、やはりそのタイプの方々は、現実世界でも人に何というか「取りつかれやすい」気もしますしね。


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しかし、まあ。

後から思い起こしてみると「あれ?何かあれは不自然だったよなあ?」とか、当たり前のように思えてやり過ごしたが違和感を感じるとか、そういう経験って、「誰にでも」あるものではないだろうか。
そう、「誰にでも」。――つまり、それを、気にするのか、気にしないのかという点が、千差万別だということである。

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但し、繰り返しになるが、後から思い起こして、「ゾ―ッとする」「血の気が引く」みたいな感覚になったことは、自分はこれまでに一度もない。

店員さんかまだいるのかと思ったけど、女の子が一人でこんな深夜にまだ閉店後の店にいるものだろうか?
とか。

未明のひと気のない横断歩道で、すれ違った人と目が会った気がして、「あれ、もしかして自分が忘れているだけで、知り合いの人だったかな?」と振り返ると、もうそこらへんには誰一人いない。
とか。

この間の夜には絶対この建物の隣に抜け道があったはずなのに、そこを歩きもしたはずなのに、何故か今日はない。(入口が塞がれているということもない。しかし地図にもない。)
とか。

でも、不思議と、不思議であるなあ、と感じるだけで、「ひぃー、コワーい!」なんていう感情は湧いてこない。
そんなものである。
きっとたぶんそれは、「本当に怖いもの」ではなかったのだと、私は思う。


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あまりにも、本でもテレビや映画でも、またはネット上でも、「不思議な話」を使って、煽って、怖がらせよう怖がらせようと企むようなことって多くあるし、
また、そんな意図に我々もつい興味本位で乗せられ踊らされ誘導されて、
「あり得ないこと」=「恐怖話」みたいにイメージしがちだけど。
しかし、そもそも「あり得ないこと」って割とさりげなく、日常の中に紛れ込んでいるのではないかなあ。――素知らぬ顔をして。当たり前の事に紛れて。

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だって、よくよく考えてみると、解らない、知らないことが即ち「不思議」だとするなら、そんなこと、生活していれば、本来そこかしこにあるはずなんだから。
「解っている」「知り尽くしている」と、こちらが勝手に思いこんでいること。
そういうことは、もしかすると、昼間の日常では山積み順番待ちの雑事に紛れて気づきにくいだけで、思っているよりたくさんあるのではないか。
深夜は、時間の流れも「日常的」ではなかったりするし、遮る気配がない――つまり「現実に生きている人」が誰もいないから、不思議というものと、じっと対峙する余裕が生まれるだけ、という気もする。

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ゾーッとするとか、しないとかは、あるいはただの「主観」ではないのか。
同じ真水を飲んで、甘いと感じる人もいれば、苦いと感じる人もいるように。
同じものをみて、「ゾ―ッ」を、感じる感受性がある人もいるだろうし、そこまで「その意味を」感じられない人間もいる、という、ただそれだけの話のような気もするのである。(私は、まあ、明らかに後者でしょうね。笑)
ただただ、不思議だなあ、というだけの、サワーッと、怖くもなんともないような鳥肌が立つくらいのことは、これまでに私にもあった気はするけど、でもまあ、もうそんな程度のことなら、いちいちすべては憶えてもいない、というか、ほとんどは、就寝時に見る夢のように、忘れてしまうよね、という(笑)。
霧は時々立ち込めるものだけど、日が照れば、それは必ず晴れる、そんな感じ。ただ、地面や布や金属の表面や、あとは自分の肌に、しっとりとした湿り気は少しの間だけ残ったりもしますよね。

という、そんなものではないでしょうか。

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(はっきりいって、一人きりで一人きりと出くわすなら、夜中の世界では、生きている人間のほうがよっぽど怖いです。……そうじゃありません??笑)