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何故人は、自分より恵まれている人のほうにばかり目がいってしまうのか?

何故人は、自分より恵まれている人の方に目がいってしまうのか?
(というか、はたしてその習性により、自分も恵まれる方角へと、歩を進めることはできるものだろうか?)



「同じ条件さえもらえれば、自分だって!」なんてつい思ってしまう。
が、自分よりその「条件」が既に悪い人だっていくらでもいるのだ。
なのに、どうしてか「自分より恵まれている側・うらやむ側のほう」にばかり目がいく。
それが人の元々持っている習性なのだとしても、一体どうしてだ?と思う。
何故なら、それであまり(自分の場合は)いいことがないからだ。

そう、つい、目に入ってくる視界の中だけで比べたがるのも悪い癖で。
例えば、その比較が、「この全世界中の人間の中で」なら、
感じ方は必ず変わってくるのではないか?
――たぶん、この文章を読んでくださっている方の多くも、今現在、
食べる物にはきっと困っていないのではないかと思うし、
住んでいる国の治安はまあまあ保たれているのではないかと思うし、
戦争にも巻き込まれてはいないのではないだろうか?
それに、こうして何も気にすることなく自由に発言もできたりもするし、
思想を統制されたりもしていないのでは?
――こんな我々の現況をうらやむ人だって、
世界中を見渡せば、きっと、相当数いるのではないかと思う。



それでも人は何故なのだろう、
「うらやめる誰か」を、わざわざ探し出しては、しきりにうらやみたがる。

いや、うらやましがるだけならいいのだ。
が、それが度を越して、妬みや落ち込みにまでいってしまったら、
気持ちは沈むばかりだろう。
それでは更にますます自分の「条件」「状況」は
悪くなるだけではないか。


うらやむ気持ちが、
「今に見てろよ」とか、奮起の元になるならいいし、
本来そのために「うらやむ気持ち」は存在するようにも思えるのだが、
どうしてだか、何もやる前から「負ける方向」へと、
気持ちが持っていかれてしまうことがある。
――それはつまり、妬みや僻みで留まることを主に指しているのだが、
そんなことも何故か多い気がする。

考えてみれば、ひたすら他人を見てただドンヨリとしていることほど、
アホらしいことはない。
だって、その人は「自分」ではないのだから。
いや、どう考えたってそうなのに、そんなことは当たり前のことなのに、
当たり前なら、何故、わざわざ自分ではない他人の状況と比較し、
わざわざガッカリしたり落ち込んだりしてしまう必要があるのだろう?

と、「我ながら」不思議に思う。
(ハイ、私もそういうことがあるので、今こうして考えているわけですね!笑)

他人と比較することによって、今現在の自分の位置を知ることは、
一種の生活術や仕事術としても、必要なことではあるのかもしれない。
で、比較対象は主に、「自分が目指すべき方向」の位置にいる人で、
それは例えば、
砂漠の中で彼方に見えるオアシスの場所を
あらためて目視して確かめているようなものなのかもしれない。
だからそれはやはり、繰り返しになるが、ある種の
「元から持っている人間というものの習性」とも言えるのかもしれない。
そして、「行ける」と思えたそのオアシスは、
歩いても歩いても歩いても、あれ?近づいてこない。
――そうか、あれは「蜃気楼」なのか、と、そのうちに気づく。
つまり、我々はもしかすると、
そんな「蜃気楼」がより多く見えやすい時代を生きているのかもしれない。

「遠視眼的」な時代である。

遠くばかりが、やけに鮮やかに見えてしまうのだ。
しかし、自分の足元に限って、よく見えていない。
見えるはずでも、そもそも見ようとはしていない。
そんなふうに遠くばかり眺めていては、
距離感の勘も鈍っていくものかもしれない。
そして、勘が鈍れば鈍るほど、
蜃気楼を蜃気楼だとますます気づかなくなってしまって、
更に延々と意味もなく歩き続け、いずれは歩くことに疲弊していく。



幸せとは、本来、どこにあるものだろう。
それはそんなに、遠くの彼方にしか、存在しないものなのか。
幸せとは、自分の「ここ」にあって、
はじめて幸せと言えたりはしないものだろうか。
「青い鳥」の話じゃあるまいし、何故今自分の掌の中にある幸せを、
まずしみじみと噛みしめようとしないのだろう。
気づかぬふりをしてしまうのだろう。
もちろん、その掌の中にある水筒の水は、
このままどこかで補給ができなければ、
そのうち尽きてしまうかもしれない。それはわかる。
しかし、その水筒の存在も忘れて、そんなに喉を枯らしたままで、
何故か遠く遠くのオアシスばかり目指して歩き続けて、
――一体「私」は、何をしているのだ?と思う。

何故、すぐそばにある幸せを、まず真っ先に喜ばないのか。
すぐ近くから水の匂いがしているのに、
水を味わうこと自体をすっかりしなくなっているから、
水の匂いを忘れてしまって、
すぐそこにある辿り着けるはずのほうのオアシスすら見失い、
更なる水場を探し続けた挙句、
結果何処へも辿り着けなくなって動けなくなっている気もする。
(という、だんだん「個人的な話」になってまいりました。笑)



子供の頃は、「遥か彼方」、遠くばかりみていたものだ。
でも、「その夢」は無邪気で、そう、
「それを眺めているだけで」幸せだった。
「遠くを眺めていること」その行為自体に、何より幸せを感じていたのだ。

――失われたそんな無邪気さは、
大人になってしまって、もうどうしようもない。
この歳になって、「子供の頃の無邪気さを!」なんて取り戻そうとしても、
そのサイズの服はもう、自分は着れないとも思う。
しかし、無邪気さを失っているくせに、どうしてまだ、
そんなにも「無邪気なふりして」遠くばかり見ているのだろう??



とはいえ。

「幸せ」とは、
あらためて「幸せだなー」なんて感じないくらい、
――それが常で、これまでずっと続いてきていて、
そしてこれから先も何も心配せずとも自動的に続いていくだろうと思えて、
その上、あまりにも近すぎて逆に気づきにくいくらい目の前にある、
――そう、つまり、「当たり前」になっているもののほうが実は、
理想的な「幸せ」なんだろーなー。

……ってことは、実は私もさっきから思ってはいましたよ?(笑)



でも何だか、
その今手元にある「水筒の水」の存在を完全に忘れきって目もくれず、
いつまでも辿り着かない「蜃気楼」を目指して歩き続けて、
歩いて歩いて、いつか失望のうちにパッタリと力尽き果てて、
心が、精神が、行き倒れになってしまう、
――そんなことって、案外いくらでも、
自分にだって起こり得るし、
実際、周りにもたくさん起こっている気がして。

ならば、一度、目をつぶってしまうのもいいかもしれないなあ、と。
一度、そうして、立ち止まってしまうのもいいかもしれない。

目を閉じて立ち止まったら、
「自分が今当たり前に持っているもの」を、
自分の今着ている衣服のポケットの中から
もう一度あらためて探って取り出して数えてみるのも、
悪くないかもしれないなあ、と。



……と、こんなふうに、
自己満足で意味不明で好き勝手なことをツラツラと書いている、
気持ちの良い新緑の五月の午後が。

来年も、再来年も、その先も、
――永遠にとは言わんが、
でも、なるべく長く続いたら、いいなあ、と。

いや、今、自分も「立ち止まって」、
よくよく「自分が既に持っているもの」を探ってみたのです。
そうしたら、こういう「一番好きな時間」が、
もう自分のポケットに入っていたのです。

あらためて遠くを目指すのは、それをしみじみと噛みしめてから、
――それからでも、かまわないわけですから。

だって、そもそも「蜃気楼」とは、逃げるものなのだから。
逃げられたところで、惜しくはないでしょう?

「蜃気楼」を、「蜃気楼」だと薄々気づいていて、
でも追いかけてしまう、
そんな「追いかけ続けること」自体が幸せという、
そんな幸せの形も、実はあるのかもしれないしね。
――子供でもないのに、
『「無邪気なふりして」遠くばかり見ている』のも、
自分は、やっぱりやめられないです。
笑)